第13話 王女の稽古相手
副学院長のマルヴィス先生の後ろ姿が、廊下の角を曲がって見えなくなったあと。
人気のない静かな場所で、エルナ様が、少し言い淀むように口を開いた。
「ねえ」
「はい。何でしょう、エルナ様」
僕が振り返ると、彼女は窓から差し込む午後の光を背に受けて、少しだけ頬を赤らめている。
「明日の朝、剣の稽古に付き合ってくれないかしら」
「えっ」
僕より先に、隣にいたダンが素っ頓狂な声を上げた。
「お、王女殿下が、ただの平民に直々に稽古を申し込むって……それ、どういうことだよ!?」
ダンが慌てて周囲をキョロキョロと見回す。
誰かに聞かれたら、不敬罪で連行されるとでも思っているのだろうか。
幸い、周りに他の生徒たちの姿はない。
「深い意味はないわ。ただ、彼の剣筋をもう少し近くで見てみたいと思っただけよ」
エルナ様は毅然と言い放ち、それから僕をまっすぐに見つめた。
「どうかしら。もちろん、無理にとは言わないけれど」
「はい、喜んで。朝の素振りなら、村でも毎日やっていましたから」
僕が素直に頷くと、エルナ様はほっとしたように小さく微笑んだ。
王立学院に入ってから、僕みたいなただの平民に、王女様が自ら声をかけてくれるなんて思いもしなかった。
翌朝。
太陽がまだ昇りきらない、少し肌寒い時間。
静寂に包まれた学院の訓練場には、僕たち三人しかいなかった。
足元には硬い土が広がり、澄んだ冷たい空気が肺を満たしていく。
ダンは「お前の見届け人として来てやったぞ」と言いながら、隅の方で眠そうにあくびをしている。
「おはようございます、エルナ様」
僕が挨拶をすると、エルナ様はすでに白い修練着に着替え、細身の剣を構えていた。
朝露に濡れた金髪が、きらきらと光っている。
いつも着ている制服とは違う、動きやすさを重視した格好だ。
「おはよう。じゃあ、さっそく打ち込んできてちょうだい」
「わかりました」
僕は腰からゴルドじいちゃんの木剣を抜き、ゆっくりと構えた。
相手は王女様だ。絶対に怪我をさせないように、うんと手加減しないといけない。
僕は足の力を抜き、手首の力だけで、そっと木剣を振り下ろす。
カンッ、と小気味いい音がして、エルナ様の剣が僕の木剣を受け止めた。
そこから、ゆっくりとした調子の打ち合いが始まる。
エルナ様の剣は、とても綺麗だった。
姿勢が真っ直ぐで、無駄な動きが一つもない。
でも、打ち合ううちに、少しだけ気になることがあった。
「あの、エルナ様」
「何かしら」
「剣が、少しだけ浮いているような気がします」
僕が言うと、エルナ様は動きを止めて目を丸くした。
「浮いている?」
「はい。村の毎朝の薪割りでは、ゴルドじいちゃんにいつも『腰が入っとらん!』と怒られていたんです。大地に根を張って、腹の底に力を込めないと、真の斬撃は生まれないって」
僕は村で教わったことを、そのままエルナ様に伝えた。
「だから、もう少しだけ腰を落として、足に力を入れた方がいいかもしれません」
エルナ様は自分の足元を見下ろし、それから小さく息を吐き出す。
「……なるほど。確かに、私は綺麗に剣を振ることばかりに気を取られていたのかもしれない」
エルナ様はもう一度剣を構え直し、僕が言った通りに少しだけ腰を落とした。
その瞬間、彼女のまとう空気ががらりと変わる。
凛とした空気はそのままに、どこかどっしりとした力強さが加わったような気がした。
「もう一度、打ち込んできて」
「はい」
僕たちは再び打ち合いを始めた。
カンッ、カンッ、と木剣と真剣がぶつかる音が、朝の訓練場に何度も響く。
エルナ様の剣は、さっきよりもずっと速く、そして重くなっていた。
受け止める木剣に、さっきよりもずっとしっかりとした手応えが返ってくる。
「すごいですね、エルナ様。さっきよりもずっと強いです」
僕が素直に褒めると、エルナ様は剣を止めて、少しだけ息を切らしながら微笑んだ。
「ありがとう。あなたの助言のおかげよ」
エルナ様は細身の剣を鞘に収め、額に浮かんだ汗を拭う。
朝日に照らされた横顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見える。
「私はね、首席として常に完璧でいなければならないの」
エルナ様が、ぽつりと言った。
「王族として、誰よりも強く、誰よりも優れていなければならない。その重圧が、時にはすごく窮屈に感じることがあるのよ」
「そうなんですか。王女様も大変なんですね」
首席や王女の重圧といわれても、村でいちばん弱かった僕にはよくわからない。
ただ、思ったことは素直に口にする。
「でも、エルナ様の剣、きれいでした。最初の一振りから、ずっと」
「えっ……」
エルナ様がきょとんとして、瞬きを繰り返す。
僕は構わず、さらに言葉を続けた。
「村のみんなの剣は、もっとこう……がさつでしたから。ゴルドじいちゃんなんて、薪と一緒に切り株まで割ってしまって、よく母さんに怒られていました」
「……がさつって」
「はい。だから、エルナ様の無駄のない真っ直ぐな剣は、すごくきれいだなと思ったんです」
エルナ様はほんの少し目を伏せ、なぜか耳の端を赤く染めている。
強い、完璧だと言われ慣れている王女様でも、剣そのものを褒められる機会は少ないのかもしれない。
彼女はどう返していいかわからない様子で、鞘に収めた細身の剣の柄を、そっと握り直した。
「……お前、それを素で言うのが一番すげえよ」
隅の方で、見学していたダンが小声で何かをつぶやいている。
「何か言いましたか、ダン」
「いいや、なんでもない。お前は一生そのまま生きろ」
僕が首を傾げると、エルナ様はふっと表情を和らげ、くすっと笑った。
「でも、あなたの剣を見ていると、そんな重圧なんてどうでもよくなってくるわ。なんだか、すごく自由で……」
エルナ様は言葉を濁し、僕をまっすぐに見つめた。
その青い瞳が、朝日にきらきらと輝いている。
「ねえ」
「はい」
「これからは、私のことはエルナって呼んでちょうだい。様付けは不要よ」
「えっ、でも」
「これは王女としての命令よ」
エルナ様が少しだけいたずらっぽく笑う。
「わかりました。エルナ……さん」
僕がそう呼ぶと、エルナさんは満足そうに頷いた。
「ええ。それと、私もこれからはティオくんって呼ぶわね」
「はい、よろしくお願いします」
僕たちがそんなやり取りをしていると、隅の方で見ていたダンが頭を抱えていた。
「王女殿下をさん付けって……お前、本当に命知らずだな……」
ダンがぶつぶつと文句を言っていると、訓練場の入り口から足音が聞こえてきた。
「おーい、お前ら!」
振り返ると、傷だらけの革鎧を着たピュータン先生が歩いてくる。
その手には、丸められた一枚の羊皮紙が握られていた。
先生のいきなりの言葉に、ダンも慌ててこちらへ駆け寄ってくる。
「朝っぱらから熱心だな。ちょうどよかった、お前らに仕事だ」
「仕事、ですか?」
僕が首を傾げると、ピュータン先生は羊皮紙を差し出した。
「ギルドから、学院生向けの依頼が来た。王都近郊の森の調査だ。お前ら三人で行ってこい」




