一章5 辺境伯の領地
魔物の襲撃から、数時間が経った。
ローデン城には、ようやく落ち着きが戻り始めていた。
城壁の修復作業が進められ、負傷した兵士たちは治療を受けている。
幸いにも、大きな被害はなかった。
だが、悠真の心には妙な感覚が残っていた。
――自分は何もできなかった。
城壁の上から戦いを見ていることしかできなかった。
魔法も使えない。
剣も使えない。
この世界のことさえ、何も知らない。
「……もっと強くならないとな」
中庭のベンチに座り、悠真は空を見上げた。
「そう思ったの?」
声に振り向く。
エレナが立っていた。
「聞いてたのか?」
「独り言が大きかったから」
「……恥ずかしいな」
悠真は苦笑する。
エレナは隣に腰を下ろした。
「でも、焦らなくていいと思う」
「そうかな」
「この世界に来たばかりなんでしょう?」
「まあ……そうだけど」
「だったら、何もできなくて当然よ」
エレナは穏やかに言った。
「私だって、最初から魔法が使えたわけじゃないもの」
「エレナも?」
「ええ」
悠真は少し意外に思った。
「じゃあ、どうやって使えるようになったんだ?」
「練習したの」
「……普通だな」
「普通よ」
エレナが笑う。
「魔法だって、最初から何でもできるわけじゃないわ」
その言葉に、悠真は少しだけ気持ちが軽くなった。
「なら、俺も練習すればいいか」
「そういうこと」
エレナが立ち上がる。
「それより、レオンハルト様が呼んでいたわ」
「俺を?」
「ええ。領都を案内するって」
「今日?」
「今日」
「忙しいんじゃないのか?」
「魔物の襲撃があったばかりだから、本当なら忙しいと思うけど」
エレナは少しだけ笑う。
「だからこそ、自分の目で領地を見ておきたいんじゃない?」
「なるほど」
悠真も立ち上がった。
――――――――
城門の外には、一台の馬車が用意されていた。
馬車の周囲には数人の騎士が付き従っている。
「これで領都まで行くんですか?」
悠真が尋ねる。
「そうだ」
レオンハルトが答えた。
「ローデン城から領都まではそれほど遠くない」
「辺境伯本人が出歩いて大丈夫なんですか?」
「問題ない」
レオンハルトは淡々としている。
「この程度で護衛を恐れていては、領主など務まらん」
悠真は思わず苦笑した。
「確かに……」
馬車へ乗り込む。
悠真、エレナ、レオンハルトの三人が同じ車内になった。
少し気まずい。
悠真は昨日からレオンハルトに対して、どこか緊張していた。
そんな悠真を見て、エレナが小さく笑う。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ」
「いや、だって辺境伯だぞ?」
「私には普通よ」
「それはエレナが慣れてるだけだろ」
レオンハルトが口元を僅かに緩めた。
「……お前たちは仲がいいな」
「え?」
悠真が驚く。
「そう見えますか?」
「少なくとも、昨日会ったばかりには見えん」
悠真とエレナは顔を見合わせる。
「……そうかもな」
悠真が答えると、エレナも微笑んだ。
馬車が走り出す。
ローデン城を離れ、街道を進んでいく。
窓の外には広大な土地が広がっていた。
麦畑。
牧草地。
小さな村。
遠くには山々が連なっている。
「これ全部、ヴァレンシュタイン領なんですか?」
「そうだ」
レオンハルトが答える。
「北方は土地が痩せている。農作物の収穫量も王都周辺に比べれば少ない」
「それでも、結構広いですね」
「広さだけなら王国でも有数だ」
悠真は窓の外を眺めた。
畑で働く人々。
道を歩く商人。
村の子供たち。
戦いの緊張感とは違う、穏やかな日常がそこにはあった。
「魔物が出る場所なのに、普通に暮らしてるんですね」
「暮らさなければならないからな」
レオンハルトは静かに答えた。
「ここで生まれ、ここで生きる者たちがいる。魔境があるからといって、全員が故郷を捨てられるわけではない」
「……」
「だから、私はこの土地を守る」
短い言葉だった。
だが、悠真にはその言葉が強く響いた。
辺境伯。
ただ偉い貴族というだけではない。
この土地に暮らす人々の命を背負っている。
それが、レオンハルトという男なのだろう。
やがて馬車は、街の入口へ差し掛かった。
「ここが領都だ」
レオンハルトが告げる。
「……すごい」
悠真は思わず声を漏らした。
石造りの街並み。
大通りには商人や冒険者らしき者たちが行き交っている。
武器屋。
道具屋。
宿屋。
食堂。
様々な店が並んでいる。
王都とは比べられない規模なのだろう。
それでも、活気に満ちていた。
「人が多いな」
「今日は市場の日だから」
エレナが答える。
馬車が大通りを進んでいると、通りの人々がレオンハルトに気づき始めた。
「辺境伯様だ!」
「レオンハルト様!」
「お帰りなさいませ!」
人々が頭を下げる。
中には手を振る者もいる。
レオンハルトは窓から静かに街を見ていた。
「慕われてるんですね」
悠真が言う。
「そう見えるか?」
「はい」
「ならば、領主として最低限の仕事はできているということだ」
レオンハルトはそれ以上、自分について語らなかった。
その時――。
馬車が一軒の店の前で止まった。
「ここで少し降りる」
「何か買うんですか?」
「違う」
レオンハルトが馬車から降りる。
悠真たちも続く。
そこは武器屋だった。
店の中には剣や槍、盾、弓などが並べられている。
「ここは?」
「領内で使われる武器を扱っている」
レオンハルトは店主に声をかける。
「先ほどの襲撃で武器が不足していないか確認したい」
「はい、閣下。幸い、大きな損失はありません」
「矢は?」
「少し減りましたが、補充できます」
「分かった。必要なら城へ連絡を」
「承知しました」
悠真はそのやり取りを見ていた。
戦いが終わったからといって、すべてが終わるわけではない。
武器の補充。
負傷者の治療。
城壁の修復。
食料の確保。
領主は戦いの後まで責任を負わなければならない。
悠真はレオンハルトを見る。
「……大変ですね」
「何がだ?」
「辺境伯って」
レオンハルトは少しだけ目を細めた。
「今さら気づいたか」
「はい」
「なら覚えておけ」
レオンハルトは店を出ながら言った。
「力を持つ者には、それに見合う責任がある」
悠真はその言葉を胸に刻んだ。
――力を持つ者には、責任がある。
それは、これから自分が魔法を手にすることになった時にも、きっと重要になる言葉だった。
街を歩いていると、突然、小さな少女が悠真の前に飛び出してきた。
「あっ!」
少女が転ぶ。
「大丈夫?」
悠真はすぐに手を差し出した。
「うん……」
少女が悠真の手を取る。
「ありがとう、お兄ちゃん」
その時、少女の母親らしき女性が駆け寄ってきた。
「申し訳ありません!」
「いえ、大丈夫です」
悠真が笑う。
少女は悠真を見上げた。
「お兄ちゃん、旅の人?」
「まあ、そんなところかな」
「じゃあ、また来てね!」
「ああ」
少女が母親と一緒に去っていく。
エレナが隣で微笑んでいた。
「何?」
「ううん」
「何か言いたそうだけど」
「……あなた、この世界でもやっていけそうね」
「そうかな」
「ええ」
エレナは前を向く。
「少なくとも、私はそう思うわ」
悠真は少し照れくさくなり、頭を掻いた。
その時だった。
街の中央にある掲示板の前に、人だかりができている。
「何だ?」
悠真が近づく。
一枚の紙が貼られていた。
そこには、魔物の討伐依頼や街道の警戒情報などが記されている。
そして、その中に一枚だけ――。
妙に目を引く紙があった。
『北方地域における魔物の異常発生について』
悠真の表情が変わる。
「これ……」
エレナも紙を見る。
「昨日の襲撃についてね」
「こんなに広い範囲で?」
そこには、ローデン城周辺だけではなく、複数の村で魔物の目撃情報が出ていることが記されていた。
「昨日だけじゃないんだ……」
「ああ」
レオンハルトが答える。
「ここ数週間、少しずつ増えている」
「それなら、もっと早く対策を――」
「すでにしている」
レオンハルトの声は静かだった。
「だが、原因が分からない以上、完全に防ぐことは難しい」
悠真は紙を見つめた。
魔物の異常発生。
昨日の襲撃。
そして、自分の転移。
偶然だと思いたい。
しかし――。
心の奥に、説明できない不安が残った。
「ユウマ」
エレナが呼ぶ。
「そろそろ戻りましょう」
「ああ」
悠真は掲示板から離れた。
その背中を、通りの向こうから一人の男が見つめていた。
黒い外套。
深く被ったフード。
男は悠真とエレナをしばらく見つめると、静かに路地裏へ消えていった。
誰にも気づかれないほど、自然な動きだった。
ただ一人。
レオンハルトだけが、その男の姿を一瞬だけ捉えていた。
「……」
レオンハルトの目が鋭くなる。
「どうかしましたか?」
悠真が振り返る。
「いや」
レオンハルトは何事もなかったように答えた。
「帰るぞ」
馬車へ向かう三人。
だが、レオンハルトの脳裏には、先ほどの男の姿が残っていた。
北方で増え続ける魔物。
異世界から現れた青年。
そして、領都に現れた謎の男。
――偶然ではない。
レオンハルトは、そう確信し始めていた。
しかし彼はまだ知らない。
この小さな異変が、やがて王都をも巻き込む大事件へと発展していくことを。




