一章1 ローデン城
ローデン城。
その巨大な城門を前にして、神谷悠真は言葉を失っていた。
夜の闇に浮かび上がる城壁は高く、まるで一つの街を守る要塞のようだった。
城壁の上には鎧を身につけた兵士たちが立ち、篝火の明かりが周囲を照らしている。
日本で生きてきた悠真にとって、映画やゲームの中でしか見たことのない光景だった。
「……本当に、異世界なんだな」
思わず口から言葉が漏れる。
「さっきから異世界って言っているけど……」
隣を歩いていたエレナが、不思議そうに悠真を見る。
「あなたのいた場所って、そんなに遠いところなの?」
「遠い……っていうか」
悠真は言葉を選んだ。
「たぶん、この世界とは違う場所だ」
「……そう」
エレナはそれ以上、深く聞かなかった。
そのことに、悠真は少しだけ救われた気がした。
森で魔物に襲われ、突然現れた少女に助けられた。
そして今、自分は見知らぬ城の前にいる。
状況を整理しようとしても、頭が追いつかない。
そんな悠真の前で、城門がゆっくりと開いていく。
「エレナ様、お帰りなさいませ」
門番の兵士が頭を下げる。
「ただいま」
エレナは慣れた様子で答えた。
しかし、兵士の視線が悠真へ向けられると、その表情が変わった。
「……そちらの方は?」
「森で倒れていたの。魔物に襲われていたから連れてきたわ」
「魔物に?」
兵士が驚く。
「はい」
「ご無事で何よりです。しかし、その方はいったい……」
「本人もよく分かっていないみたい」
エレナが悠真を見る。
「名前はユウマ。少し事情があるの」
「事情、ですか……」
兵士は困惑した様子だった。
それでもエレナに逆らうことはなく、二人を城内へ通した。
門を抜けると、中庭が広がっていた。
石造りの建物。
整えられた庭園。
いくつもの灯りを宿した街灯。
そして、城の奥にそびえる巨大な本館。
「……すごい」
悠真は思わず呟いた。
「ここがローデン城?」
「そうよ」
「誰の城なんだ?」
「ヴァレンシュタイン辺境伯――レオンハルト・フォン・ヴァレンシュタイン様の居城よ」
「辺境伯……」
聞き慣れない言葉だった。
「王国の北方には広大な魔境があるの。そこから魔物が国へ侵入しないように、この土地を守っているのがヴァレンシュタイン家」
エレナは歩きながら説明する。
「だから、この城にはたくさんの兵士がいるのよ」
「なるほど……」
悠真は改めて城を見上げた。
ただの貴族の屋敷ではない。
ここは、この国の北方を守るための要塞なのだ。
その時だった。
「エレナ様!」
城の入口から、一人の女性が駆けてきた。
長い銀髪を後ろでまとめ、黒を基調としたメイド服を身につけている。
「お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」
「セシリア。ただいま」
エレナが微笑む。
セシリアと呼ばれた女性は、安堵したように胸を撫で下ろした。
しかし、その視線が悠真へ移る。
「……そちらの方は?」
「森で出会ったの。魔物に襲われていたから連れてきたわ」
「まあ……」
セシリアは悠真を観察するように見つめた。
「お怪我は?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「それならよかったです」
セシリアは柔らかく微笑んだ。
「私はセシリア・アルベルと申します。このローデン城でメイドを務めております」
「神谷悠真です」
「カミヤ……ユウマ様、ですね」
「様はやめてください。普通に悠真で」
「では、ユウマさんとお呼びしますね」
その時、背後から別の声が聞こえた。
「セシリア、何かあったの?」
振り返ると、今度は金色の髪をした女性が立っていた。
「フィオナ。エレナ様がお戻りになりました」
「まあ!」
フィオナ・シュテルはエレナのもとへ駆け寄る。
「お帰りなさい、エレナ様!」
「ただいま、フィオナ」
「お怪我はありませんか?」
「大丈夫よ」
「よかった……」
フィオナは安心したように笑った。
その後ろから、もう一人の少女が静かに姿を現す。
「……騒がしいと思ったら、エレナ様がお戻りになっていたのですね」
落ち着いた雰囲気の少女。
「エステル」
エレナが名前を呼ぶ。
「お帰りなさいませ、エレナ様」
エステル・フォルンは静かに頭を下げた。
そして三人のメイドが揃ったところで、悠真はようやく気づいた。
――この城には、自分の知らない日常がある。
この世界では、これが当たり前なのだ。
魔法も。
魔物も。
貴族も。
そして――異世界から来た自分自身も。
「ユウマさん」
セシリアが声をかける。
「旦那様がお会いになるそうです」
「旦那様?」
「レオンハルト・フォン・ヴァレンシュタイン様です」
悠真の背筋が自然と伸びた。
この城の主。
王国北方を守る辺境伯。
一体どんな人物なのか。
エレナを見ると、彼女は静かに頷いた。
「大丈夫よ。怖い人じゃないわ」
「……そうなのか?」
「ええ。ただ――」
エレナが少しだけ言葉を止める。
「とても鋭い人だから、変なことは言わないほうがいいかも」
「それ、怖い人より怖くないか?」
思わず悠真が呟く。
エレナは小さく笑った。
「ふふっ。そうかもしれないわね」
そして悠真は、セシリアに案内されて城の奥へと進んでいく。
長い廊下。
壁に飾られた歴代当主の肖像画。
窓の外には、夜のヴァレンシュタイン領が広がっている。
しばらく歩いた先で、セシリアが一つの扉の前で足を止めた。
「こちらです」
扉の向こうに、この城の主がいる。
悠真は一度だけ深呼吸した。
そして――。
扉が、静かに開かれた。
「入れ」
低く、落ち着いた声が響く。
悠真はその声を聞いた瞬間、直感した。
――この男は、ただの貴族ではない。
部屋の奥。
大きな机の前に、一人の男が座っていた。
黒髪に近い濃い色の髪。
鋭い眼差し。
鍛え上げられた身体。
年齢を感じさせない威厳をまとった男。
レオンハルト・フォン・ヴァレンシュタイン。
彼は悠真をじっと見つめた。
「……神谷悠真、か」
「はい」
「まずは座れ」
悠真が椅子へ腰を下ろす。
レオンハルトはしばらく黙ったまま、悠真を観察していた。
「エレナから話は聞いている」
「……はい」
「お前は、この世界の人間ではないそうだな」
その言葉に、悠真は息を呑んだ。
「……分かるんですか?」
「分かる」
レオンハルトは淡々と答えた。
「お前の服装も、言葉遣いも、持っている道具も、この国のものではない」
悠真はポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を見たレオンハルトの目が僅かに細くなる。
「それは何だ?」
「スマートフォンです」
「……聞いたことのない名だな」
「俺のいた世界では、普通に使われている道具です」
レオンハルトはしばらくスマートフォンを見つめた。
そして静かに口を開く。
「神谷悠真」
「はい」
「お前が何者であろうと、今すぐ問い詰めるつもりはない」
「……え?」
「この世界に来た理由も、今は分からないだろう」
悠真は黙って頷いた。
「ならば、まずは生きることを考えろ」
レオンハルトの声には、不思議な優しさがあった。
「お前がこの世界で何をするのかは、その後で決めればいい」
悠真はその言葉を聞き、少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言う必要はない」
レオンハルトは立ち上がった。
「お前はエレナを助けた。ならば、我々もお前を見捨てる理由はない」
その言葉を聞いたエレナが、静かに微笑む。
しかし――。
レオンハルトの視線が一瞬だけエレナへ向いた。
その目には、悠真には理解できない何かがあった。
決意。
警戒。
そして――秘密。
「今夜はこの城で休め」
レオンハルトはそう告げた。
「明日から、この世界について学べばいい」
こうして神谷悠真は、ローデン城で新たな生活を始めることになった。
だが、この時の悠真はまだ知らない。
自分を受け入れたこの城が、これから始まる長い旅の最初の場所になることを。
そして――。
この城の主、レオンハルトだけが知る、エレナにまつわる重大な秘密が存在することを。




