プロローグ
その日も、神谷悠真にとっては何の変哲もない一日だった。
朝起きて、仕事へ向かう。
慌ただしい電車に揺られ、会社では上司や同僚と顔を合わせ、いくつもの仕事を片付ける。
特別な才能があるわけでもない。
誰もが知っているような平凡な人生。
それが、神谷悠真という青年の日常だった。
仕事を終えた悠真は、いつもの帰り道を歩いていた。
「……今日も疲れたな」
時刻は夜。
街灯に照らされた歩道を歩きながら、悠真は小さく息を吐いた。
スマートフォンを取り出す。
友人から届いたメッセージを確認し、何気なく返信する。
その瞬間だった。
――世界が、歪んだ。
「……え?」
目の前の景色が、水面のように揺らめいた。
街灯が歪む。
建物が歪む。
道路を走っていた車さえ、まるで遠い世界の出来事のように輪郭を失っていく。
「なんだ……これ……?」
逃げようとした。
しかし、足が動かない。
身体そのものが、何かに引き寄せられているようだった。
次の瞬間――。
白い光が、視界を埋め尽くした。
――――――――
「……っ!」
悠真は地面に叩きつけられた。
「痛っ……!」
背中に走った痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと身体を起こす。
「……ここは?」
目の前に広がっていたのは、森だった。
鬱蒼と茂る木々。
見たこともない植物。
遠くから聞こえる鳥の鳴き声。
そして――空。
「……月が、二つ?」
夜空には、大小二つの月が浮かんでいた。
悠真はしばらく言葉を失った。
夢でも見ているのか。
そう思い、頬をつねる。
「痛い……」
夢ではない。
ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面は点く。
しかし、当然のように圏外だった。
「……マジかよ」
警察。
救急車。
家族。
友人。
そんな現代の当たり前が、急に遠いものになった。
悠真は立ち上がり、森の中を歩き始めた。
何時間歩いたのか分からない。
喉は渇き、足は疲れ、空腹も限界に近づいていた。
そして――。
森の奥から、何かが聞こえた。
ガサッ……。
「……?」
悠真が振り返る。
木々の隙間から、二つの赤い目がこちらを見ていた。
「……なんだ?」
低い唸り声。
草むらが大きく揺れる。
次の瞬間、巨大な獣が姿を現した。
「う、うわぁっ!」
狼に似ている。
だが、悠真の知っている狼とは明らかに違った。
体長は二メートルを超え、鋭い牙を剥き出しにしている。
「来るな!」
悠真は反射的に後ずさる。
しかし、獣は容赦なく飛びかかってきた。
「――っ!」
死ぬ。
そう思った。
だが、その瞬間――。
「伏せて!」
少女の声が響いた。
青白い光が夜の森を駆け抜ける。
――ドンッ!
轟音とともに、獣の身体が吹き飛ばされた。
悠真は呆然と地面に座り込んだ。
「……え?」
目の前に、一人の少女が立っていた。
月明かりを受けて輝く、美しい髪。
手には淡い光を纏った杖。
少女は悠真を見つめ、少し驚いたように目を見開いた。
「あなた……大丈夫?」
「あ、ああ……」
悠真は何とか頷いた。
少女は警戒するように周囲を見回したあと、悠真へ視線を戻す。
「こんなところで何をしているの?」
「それは……」
悠真は答えに困った。
異世界に飛ばされました。
そんな話をして信じてもらえるとは思えない。
「……道に迷った」
とりあえず、そう答えた。
少女は少しだけ眉を寄せた。
「道に?」
「ああ」
「この森に?」
「……そう」
「一人で?」
「……そう」
少女はしばらく悠真を見つめた。
やがて、小さくため息をつく。
「変な人」
「……よく言われる」
少女はほんの少しだけ笑った。
それが、悠真がこの世界で初めて見た笑顔だった。
「私はエレナ」
「エレナ……」
「あなたは?」
「神谷悠真」
「カミヤ……ユウマ?」
「ああ。悠真でいい」
「分かった。ユウマね」
エレナはそう言って手を差し出した。
「ここは危険よ。近くに魔物が出るから」
「魔物……?」
聞き慣れない言葉に、悠真は目を瞬かせた。
「……もしかして、あなた。本当に何も知らないの?」
「……知らない」
エレナは不思議そうな顔をした。
しかし、それ以上は追及しなかった。
「だったら、私についてきて。近くに安全な場所があるから」
「いいのか?」
「このまま一人で森に残ったら、次は助けられないかもしれないもの」
そう言って、エレナは歩き始める。
悠真はその背中を見つめた。
ここがどこなのか。
なぜ自分がここにいるのか。
何も分からない。
それでも――。
「待ってくれ!」
悠真はエレナを追いかけた。
しばらく森を歩いた頃、木々の隙間から小さな明かりが見えてきた。
そこには馬車が停まっていた。
そして、その先には巨大な城壁がそびえ立っている。
「……城?」
悠真が呟く。
エレナは頷いた。
「そう。ローデン城よ」
城壁の向こう。
そこには巨大な城が建っていた。
高くそびえる塔。
城壁の上に立つ兵士。
夜空を照らす魔法の灯り。
日本では決して見ることのできない光景だった。
「ここは、ヴァレンシュタイン辺境伯領」
エレナが告げる。
「この国の北方にある領地よ」
「……異世界、ってことか」
悠真がぽつりと呟いた。
エレナが振り返る。
「異世界?」
「いや……何でもない」
悠真は苦笑した。
まだ自分自身でさえ、この状況を理解できていない。
ただ一つだけ分かることがある。
自分はもう、元の世界にはいない。
そして、この少女との出会いが――。
自分の人生を大きく変えることになる。
この時の悠真は、まだ知らなかった。
エレナとの出会いが、王国を揺るがす大事件へと繋がっていくことを。
やがて出会う、ヴァレンシュタイン辺境伯。
王都レグナスに集う聖騎士たち。
そして、世界の終焉を望む謎の組織――終焉教団。
その全てが、自分の運命に繋がっていることを。
ただ、この夜。
異世界で最初に悠真へ手を差し伸べてくれた少女の名前だけは、決して忘れなかった。
――エレナ。
それが、神谷悠真の異世界物語の始まりだった。




