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8.神戸まで、まだ生きている

カーテンの隙間から差し込む日差しが、畳の上に漂う埃を照らし出している。


ここは神戸の地方都市。


西成の喧騒からも、東京の重圧からも遠く離れた場所だ。


けれど、完全に真っ白な世界へ逃げ切るだけの自信はなかった。


私がこの街を選んだのは、同時に、万が一の時、また体を売りやすい場所でもあるからだ。


本当、救いようのない女。


六畳一間のアパート。


家具はショップで買った小さなテーブルと布団だけ。


私は布団の上に座り、スマートフォンを握りしめている。


画面には「通話終了」の文字。


母さんとの電話を切ったばかりだ。


「最近、寒くなってきたけど風邪ひいてない? 仕事、無理しないでね」


母さんの声はいつも優しい。


私は「うん、大丈夫。


プロジェクトが忙しくて」と嘘を重ねた。


電話を切った後、胸の奥に鉛を飲み込んだような重苦しさが広がる。


罪悪感だ。


親は私が正社員として立派に働いていると信じている。


実際は、風俗で稼いだ薄汚い金を切り崩して生きているだけの、社会の寄生虫なのに。


無音の部屋。


誰とも話さない一日。


コンビニの店員に「袋いりません」と言うのが、唯一の発声だった日もある。


静寂が、私の鼓膜を圧迫する。


私は無意識のうちに、爪を首筋に立てていた。


痛みだけが、私がここに存在していることを証明してくれる。


洗面台の鏡を見る。


左腕のミミズ腫れに加えて、首筋にも赤い線が増えていた。


見苦しい。


でも、やめられない。


月に一度通う心療内科の医師は、カルテを見ながら言った。


「○○さん、少し外の世界と関わってみませんか?」


彼は穏やかに諭す。


「趣味のサークルでもいいし、恋人や友人を作ってみるのもいい刺激になりますよ。ずっと一人でいると、思考が内側にばかり向いてしまうから」


恋人。


友人。


私には最も縁遠い言葉だ。


でも、その言葉は乾いた心に染み込んだ水のように、私の渇望を刺激した。


寂しい。


独りで死んでいくのが怖い。


誰かに名前を呼ばれたい。


誰かに、普通の人間として認識されたい。


それは、生物としての根源的な欲求だった。


私は帰宅後、震える指でマッチングアプリをインストールした。


プロフィール写真を登録する。


顔は隠さず、少し加工して明るく見せた。


職業欄は「家事手伝い」と嘘をついた。


承認ボタンを押した瞬間、スマートフォンが振動し始めた。


通知音が鳴り止まない。


『いいね!』『メッセージが届きました』『はじめまして』


画面を埋め尽くす男たちの顔写真と言葉。


一晩で百件を超えるメッセージが届いた。


私は目を見張る。


こんなにも、私を求めてくれる人がいるのか。


画面の中の数字が、私の空虚な自尊心を満たしていく。


錯覚だとわかっている。


彼らは私の顔写真という記号に反応しているだけだ。


それでも、私はその中から、優しそうで、真面目そうなプロフィールを持つ男を選び、返信をした。


『はじめまして。かすみです』


文字だけの会話は楽しかった。


趣味の話、食べ物の話、日常の些細な出来事。


彼らは私の言葉に反応し、共感し、質問を返してくれる。


私は久しぶりに、人間として扱われている気がした。


数日後、一人の男性と会う約束をした。


駅前のカフェ。


私は長袖のニットを着て、傷跡を隠した。


彼は写真通りの穏やかな男性だった。


会話も弾んだ。


「かすみさんは、普段何してるの?」


彼がコーヒーカップを置きながら尋ねる。


「えっと……今は、休職中で……」


嘘をつくのが苦しくなり、私は少しだけ真実を混ぜた。


「実は、昔少し病気をして、今は療養中なんです」


彼の表情が少し曇る。


そして、ふとした拍子に、袖口から左腕の傷跡が見えてしまった。


彼の視線がそこに釘付けになる。


その目には、同情ではなく、明確な嫌悪と恐怖が浮かんでいた。


「あ、そっか……大変でしたね」


彼の口調が、よそよそしい敬語に変わる。


「ごめん、急用思い出したから」


彼は逃げるように席を立ち、代金だけ置いて去っていった。


すぐにスマートフォンを確認すると、ブロックされたのだ。


傷物。


地雷女。


メンヘラ。


無言のレッテルを貼られた気がした。


それでも、私は諦めきれずに次の男に会った。


今度は傷跡を見せないように注意した。


しかし、無職であることを告げると、相手の態度はあからさまに変わった。


「え、働いてないの? じゃあどうやって生活してるの?」


「親の脛かじり? うーん、結婚相手としてはちょっとね」


彼は露骨に私を値踏みし、興味を失った顔をした。


社会的な肩書きのない人間は、彼らにとって対等なパートナーではないのだ。


逆に、それらを一切気にしない男たちもいた。


「病気とか関係ないよ。君が可愛いから会いたい」


甘い言葉を囁く彼らは、すぐに話題をホテルや家への誘いに変えた。


「今日、泊まっていかない?」


「癒してあげるよ」


その目は、ソープランドに来る客たちと同じ色をしていた。


私の中身など見ていない。


ただ、手軽に扱える若い女の肉体を欲しているだけだ。


私は丁重に断り、逃げるように帰った。


アパートのドアを閉め、鍵をかける。


靴も脱がずに、玄関に座り込む。


スマートフォンの画面を見る。


まだ何十件もの未読メッセージがある。


けれど、もう開く気力はない。


わかった。


よくわかった。


私はもう、普通の恋愛市場には並べない商品なのだ。


傷跡があり、職がなく、精神を病んだ女。


まともな男は逃げ出し、身体目的の男だけが群がる。


それが私の市場価値だ。


私は愚かだった。


強欲だった。


ソープで身体を売り、社会から逃げ出したくせに、人並みの愛や温もりを欲しがるなんて。


「……ばかみたい」


私は呟き、アプリのアカウント削除ボタンを押した。


画面から通知が消え、また元の静寂が戻ってくる。

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