7.成れの果て
大阪での生活が半年を過ぎた頃、私の心は限界を超えて軋んでいた。
たびと旧地の回転率は異常だ。
玄関に座り、男の手を取り、二階へ上がり、服を脱ぎ、股を開く。
その動作を一日何十回と繰り返す。
15分という短い時間設定が、私を人間ではなく、ただの性処理機へと変えていく。
シャワーを浴びる時間さえ惜しまれるため、濡れたタオルで身体を拭くだけの簡易的な清浄。
皮膚が常に湿り、他人の体液の臭いが染み付いている気がして、洗っても洗っても落ちない。
客の顔など覚えていない。
彼らも私の顔など見ていない。
ただ穴があればいい。
若くて、白くて、形の良い穴。
それだけが私の存在意義だった。
休憩室でコンビニのおにぎりを齧る。
味がしない。
砂を噛んでいるようだと言いたいところだが、実際はただの冷たい米の塊を喉に押し込んでいる感覚しかない。
胃が痙攣し、吐き気がこみ上げるが、吐くものがない。
薬を飲む。
抗うつ剤の量が増えている。
効いているのかどうかも分からない。
ただ、飲まなければ立っていられないという強迫観念だけで錠剤を飲み込む。
「かすみちゃん、あんたもう限界やで」
隣でタバコをふかしていた先輩嬢のみゆきさんが言った。
彼女は20代半ばだが、厚化粧の下に隠された肌は荒れ、目は常に濁っている。
「死んだ魚みたいな目ぇしてるわ。このままやとホンマに壊れるで」
彼女は紫煙を吐き出し、私の肩を叩いた。
「癒やし、要るやろ? 毎日毎日、汚いおっさんの相手ばっかりしてたら頭おかしなるわ。アタシらも人間やもん、たまにはお姫様扱いされたいやんか」
その夜、私は彼女に連れられてミナミの繁華街へ出た。
ネオンが煌めくビルの地下。
重厚な扉を開けると、そこは別世界だった。
香水の甘い香り。
アップテンポな音楽。
そして、煌びやかなスーツに身を包んだ美しい男たち。
「いらっしゃいませ、お姫様」
席に着くと、私の隣に座ったのは「レン」と名乗る若い男だった。
整った顔立ち、優しい声、そして何より、私を一人の女性として尊重するような丁寧な態度。
「仕事、大変だったね。頑張ってるね」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れた。
誰も言ってくれなかった言葉。
誰も認めてくれなかった私の苦痛。
彼は私の手を包み込み、ハンカチで涙を拭ってくれた。
「俺が癒やしてあげるから。今日は全部忘れていいよ」
シャンパンの栓が抜ける音。
グラスに注がれる黄金色の液体。
それが私の破滅への入り口だった。
それからの私は、憑かれたようにミナミへ通った。
ソープで稼いだ金は、右から左へとホストクラブへ消えていく。
身体を売って得た汚れた金が、レンの笑顔と甘い言葉に変換される。
「かすみが一番可愛いよ」
「かすみのおかげで今月ナンバー入れそう」
「愛してる」
その言葉だけが、私の呼吸を繋ぐ酸素だった。
店での辛い行為も、レンに会うためだと思えば耐えられた。
どんなに汚されても、夜になれば彼が私を綺麗だと言ってくれる。
彼が私の存在を肯定してくれる。
それは金で買った偽りの愛だと、心のどこかでは分かっていた。
それでも、その偽物がなければ、私はとっくに崩れ落ちていただろう。
肯定感。
承認欲求。
人間としての尊厳。
それら全てを、私は高い酒のボトルと引き換えに手に入れていた。
貯金通帳の残高が増えることはない。
稼げば稼ぐほど、レンが求める売上のハードルは上がり、私はさらに身体を酷使して金を稼ぐ。
自転車操業のような日々。
それでも、私は幸せだと思い込もうとしていた。
彼がいるから生きていけると。
一年が過ぎたある朝、異変は起きた。
下腹部に強烈な痒みと痛みを感じた。
トイレに行き、下着を下ろすと、そこには見慣れない発疹と膿があった。
震える手でスマートフォンを検索する。
画像検索の結果と、私の患部は酷似していた。
性病。
血の気が引く。
これでは店に出られない。
稼げない。
レンに会えない。
慌てて婦人科を受診する。
医師は淡々と病名を告げ、治療が必要だと言った。
数週間、あるいは一ヶ月、仕事はできない。
私はすぐにレンにLINEを送った。
『ごめん、病気になっちゃって、しばらくお店行けないかも』
『そっか、お大事にね』
返信は早かった。
しかし、それだけだった。
『不安だよ、会いたい』
『ごめん、今月締め日で忙しいから無理』
以前なら「大丈夫?」「何か買って行こうか?」と言ってくれたはずの彼が、素っ気ない。
数日後、再び連絡を入れる。
『寂しい』
既読がつかない。
電話をかける。
コール音が虚しく響くだけで、誰も出ない。
さらに数日後、送信したメッセージに既読すらつかなくなった。
ブロックされたのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
誰もいないアパートの部屋で、私は天井を見上げていた。
熱があるのか、身体がだるい。
股間の痛みよりも、胸の痛みが鋭い。
彼は私を愛していなかった。
私の金だけを愛していたのだ。
金ヅルが切れた瞬間、私は用済みのゴミになった。
分かっていたはずなのに。
分かっていたはずの現実が、鋭利な刃物となって心臓を抉る。
誰も看病に来ない。
水に濡らしたタオルを自分で額に乗せる。
涙がこめかみを伝って枕に吸い込まれていく。
一年間、私は何をしていたのだろう。
身体を売り、心をすり減らし、稼いだ金を全て嘘つきの男に貢ぎ、その結果残ったのは、性病に侵された身体と、ボロボロになった精神だけだ。
青春?
そんなものはとっくに終わっていた。
健康?
もう二度と元には戻らないかもしれない。
精神?
粉々だ。
これが私か。
これが、かつて優等生と呼ばれ、真面目に生きてきた私の成れの果てか。
笑いが込み上げてくる。
乾いた、引きつった笑い声が、狭い部屋に響く。
私は馬鹿だ。
救いようのない馬鹿だ。
治療を終え、医師から完治の診断を受けた日、私は大阪を去ることを決めた。
この街には嫌な記憶しかない。
たびと旧地の赤い座布団も、ミナミの煌びやかなネオンも、すべてが私を嘲笑っているように見える。
銀行口座に残っていたのは、わずか200万円。
一年半、あれだけ身体を売って稼いだ千万円のほとんどが消えていた。
それでも、これだけあれば、しばらくは生きていける。
あるいは、死ぬ場所を探す旅費にはなる。
少ない荷物をボストンバッグに詰める。
薬の袋もしっかりと入れる。
部屋の鍵をポストに投函し、私は駅へ向かう。
新快速電車に乗る。
大阪の街並みが後ろへと流れていく。
私は窓ガラスに額を押し付け、流れる景色を見る。
目指すのは神戸。
海のある街。
理由は特にない。
ただ、ここではないどこかへ行きたかっただけだ。
電車が淀川を渡る。
川面が太陽の光を反射して輝いている。
美しい景色のはずなのに、私の目には灰色にしか映らない。
すべてを失った。
いや、最初から何も持っていなかったのかもしれない。
私は座席に深く沈み込み、目を閉じた。
車輪がレールを刻むリズムだけが、私の鼓動と同期していた。
【作者から、ひとつだけお願いです】
少しでも、
「何かが残った」
「続きを見てみたい」
と思っていただけましたら、
1秒かけて【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしていただけると嬉しいです。
もしよろしければ、ブクマもしていただけると励みになります。
あなたのその1秒が、この物語を続けるための支えになります。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。




