6.私の居場所
玄関の上がり框に敷かれた緋色の座布団が、私の職場であり、同時に私の世界の全てだった。
頭上の強力な照明が、白粉を塗った肌を陶器のように照らし出し、私の輪郭を曖昧にする。
通りを行き交う男たちの視線が、光の壁を透過して私を舐め回す感覚にも、もう慣れてしまった。
私は膝を揃え、背筋を伸ばし、口角をわずかに持ち上げる。
それは精巧に作られた能面のような微笑みだ。
ここでは言葉はいらない。
ただそこに存在する美しい肉人形であればいい。
「お兄ちゃん、どや? 可愛いやろ」
隣に座るおばちゃんの呼び込み声が、遠い世界のことのように響く。
男が足を止め、私を指差す。
私はゆっくりと立ち上がり、男の手を取る。
その手は湿っていたり、脂ぎっていたり、あるいは冷たかったりするが、私にとってはただの肉の感触でしかない。
階段を上る足音が、儀式の始まりを告げる太鼓のように聞こえる。
二階の狭い小部屋。
畳の上に敷かれた布団。
風呂はない。
洗面器の水とタオルだけが、ここでの清浄を司る。
私は慣れた手つきで男のズボンを降ろし、ウェットティッシュで局部を拭う。
ゴムを装着する指先に、躊躇いはない。
そこにあるのは、工場のライン作業と同じ、効率化された動作だけだ。
行為そのものは短い。
私の身体は揺られ、軋み、喘ぎ声を漏らすようにプログラムされている。
「……んっ、あ……」
喉から出る声は、私の感情とは無関係に紡ぎ出される。
心は天井のシミの数を数え、あるいは明日の天気を考えている。
身体と意識の乖離。
それは私が生き延びるために身につけた、唯一の防衛本能だった。
「ねえ、なんで風俗嬢になったの?」
事後の気だるい空気の中で、男がふと尋ねてくることがある。
彼らは何を知りたいのだろう。
借金か、家庭の事情か、それとも悲劇的な物語か。
私は枕元で身を整えながら、用意しておいたカードを切る。
「エッチが大好きだからです」
少し恥じらうように目を伏せ、上目遣いで男を見る。
男は満足そうに笑い、私の頭を撫でる。
「そっかそっか、いい子だね」
単純な生き物だ。
彼らは自分の欲望を肯定してくれる幻想を求めているに過ぎない。
私の本当の理由など、誰が聞きたがるだろう。
真面目に生きた結果、心が壊れ、社会から弾き出され、生きるために股を開いているなどという、救いのない現実を。
嘘をつくたび、私の内側の空洞がまた少し広がる気がした。
財布の中には、かつての私が一ヶ月かけて稼いでいた額が、わずか数日で積み上がっていく。
皮肉な話だ。
正社員として身を削り、精神を病むまで尽くした対価よりも、心を殺して身体を売る対価の方が遥かに高いなんて。
けれど、私の指名客リストは常に空白に近い。
リピーターがつかないのだ。
当然だ。
私の接客には魂がない。
ただの精巧なダッチワイフと変わらない。
愛想の良い会話も、心からの奉仕も、私にはできない。
だから私は、稼げても、ここでは底辺のままだ。
待機時間、お茶を飲みながら他の女の子たちの話が耳に入る。
「昨日ホスト行ってさー、シャンパン入れちゃった」
「マジ? 私も稼がなきゃ。今の彼氏と結婚資金貯めるんだ」
彼女たちは明るく、逞しい。
ホストに金を貢ぐために身体を張る子。
短期集中で稼ぎ、飽きたら足を洗って普通の生活に戻ろうとする子。
「あと半年で目標額いくから、そしたら辞めて事務やるわ。派遣登録して、婚活して、普通の主婦になるの」
彼女が笑いながら言うその言葉が、鋭い針のように私の胸を刺す。
羨ましい。
彼女たちには「戻る場所」がある。
この泥沼は一時的な通過点に過ぎず、いつでも岸辺に上がれるという確信がある。
欲望のために働き、楽しみ、そして日常へ帰っていく。
その軽やかさが、私には眩しすぎて直視できない。
私はどうだ。
鏡の中の自分に問いかける。
戻れる場所など、どこにある?
オフィス街のビル群を見上げるだけで過呼吸になる私が。
電話の着信音に怯え、人との会話に恐怖する私が。
事務職? 派遣? 普通の主婦?
そんなものは、もう私の手の届かない場所にある。
病気が、左腕の傷が、そして何より、一度壊れてしまった心が、私を常識の世界から拒絶している。
私はここでしか生きられない。
この赤い座布団の上で、偽物の笑顔を貼り付け、名前も知らない男たちに消費されることでしか、呼吸を許されない。
彼女たちとは違う。
私は金が欲しいのではない。
ただ、死ねないから生きているだけだ。
その決定的な断絶に、涙さえ枯れ果てていた。
「……お兄ちゃん、遊んでいかへん?」
おばちゃんの声に合わせて、私はまた、空っぽの人形になって微笑む。




