5.私は二度死んだ
控室のホワイトボードに張り出されたランキング表の最下位に、私の源氏名が黒いマーカーで記されている。
その文字は他の女の子たちの名前よりも小さく、弱々しく見える。
売上の数字が、私の存在価値を冷徹に数値化している。
男性スタッフがバインダーを持って近づいてくる。
革靴が床を叩く音が、私の鼓動と不協和音を奏でる。
彼は私の顔を見ず、手元の資料に目を落としたまま言った。
「かすみちゃん、また最下位だよ。やる気ある?」
私は唇を噛み、俯く。
「……すみません」
「顔だけ良くてもね、中身が伴わないと。ここはサービス業だから。数字が出ないなら、ここにいる価値ないよ」
彼は吐き捨てるように言い、踵を返した。
その背中を見送りながら、私は自分の掌を見つめる。
汗で湿っている。
価値がない。
その言葉が、耳の奥で反響し続ける。
かつては偏差値や成績で評価された。
今は、どれだけ男に体を売ったかという数字で評価される。
尺度は変わっても、私が落第者であるという事実は変わらない。
個室のベッドの上。
男が私の上に覆い被さっている。
彼の息遣いが耳元にかかるたび、全身の筋肉が硬直する。
「なんかしてくれよ!」
男が苛立ちを露わにする。
頭の中で「ごめんなさい」という文字列は浮かんでいるのに、脳から喉への神経が完全に断線していた。
うつ病の薬の副作用か、あるいは限界を超えた恐怖による自己防衛か。
息を吸うタイミングすらわからなくなり、私の体は硬直したままピクリとも動かない。
うつ病の薬の副作用か、それとも恐怖による防衛反応か、思考が白い霧に包まれて回らない。
愛想笑いすら作れない。
ただ、天井のシミを見つめ、時間が過ぎるのを待つことしかできない。
事後、男は不機嫌そうに帰っていった。
シーツの上に残された私は、抜け殻のようだ。
いや、比喩などではない。
魂の抜けた、ただの肉の器だ。
ティッシュで股間を拭きながら、私は涙さえ出ない自分に気づく。
感情が摩耗しきっている。
寮の狭い部屋で、スマートフォンの光だけが頼りだった。
指先が画面をスクロールする。
『会話なしでも稼げる』
『顔さえ良ければ即採用』
『大阪・たびと旧地』
その文字列が、暗闇の中に浮かぶ救命ボートに見えた。
東京の店では、接客トークや営業メール、ブログの更新まで求められる。
コミュニケーション能力の欠落した私には、それが何よりも苦痛だった。
でも、あそこなら。
座っているだけでいいなら。
私はボストンバッグに少ない荷物を詰め込んだ。
服、化粧品、そして大量の薬。
部屋の鍵をポストに入れ、誰にも告げずに東京駅へ向かう。
新幹線の車窓から見える東京のビル群が、灰色の墓標のように後ろへと飛び去っていく。
この街で私は死んだ。
二度死んだ。
一度目は会社員として。
二度目は風俗嬢として。
今度こそ、生まれ変われるだろうか。
新大阪駅の雑踏を抜け、地下鉄を乗り継ぐ。
動物園前駅で降りると、独特の臭気が鼻をついた。
古びたアーケード街を抜ける。
昼間だというのに、日陰には酒を持った老人たちが座り込んでいる。
その視線から逃げるように早足で歩く。
やがて、白い提灯が整然と並ぶ一角が見えてきた。
たびと旧地。
そこは、現代日本から切り離された異界だった。
古い遊郭の建築様式を残した料亭が、道の両側に軒を連ねている。
玄関が開け放たれ、その中心には眩しいほどの照明に照らされた若い女性が座っている。
その横には「やり手婆」と呼ばれる老婆が座り、道行く男たちに声をかけている。
「お兄ちゃん、見てってや」
「可愛い子おるで」
その光景に、私は足を止めた。
ここは店ではない。
人間を展示するショーケースだ。
私はここで、商品として陳列されるのだ。
恐怖で足が竦む。
しかし、戻る場所はない。
ネットで連絡を取っていた店の暖簾をくぐる。
中から恰幅の良い女性が出てきた。
彼女は私の顔をじろじろと見回し、満足そうに頷いた。
「えらい別嬪さんやな。これならいけるわ」
履歴書も、身分証の確認も、事務的な手続きは最小限だった。
東京のときのような細かい講習もない。
「あんたはただ、そこに座ってニコニコしてたらええ。あとはおばちゃんがやったるから」
その言葉に、肩の力が抜けるのを感じた。
話さなくていい。
営業しなくていい。
ただ、美しい人形でいればいい。
着替えを渡される。
露出の多いドレスではなく、清楚なワンピースだった。
髪を整え、薄く化粧をする。
そして、玄関の上がり框に置かれた座布団の上に座る。
強力な照明が私を照らす。
視界が白く飛ぶほどの光量だ。
通りを歩く男たちの視線が、光の壁を通して私に突き刺さる。
私は膝の上で手を重ね、背筋を伸ばす。
不思議と、東京の個室にいたときのような閉塞感はない。
私はショーウインドウの中のマネキン。
心を持たない、美しい物体。
そう自己規定することで、私はかろうじて正気を保つ。
「はい、お兄ちゃんどう? この子、東京から来たばっかりやで」
隣に座るおばちゃんの声が響く。
私は口角をわずかに上げ、瞬きをする。
過去を捨てた。
ここで私は、ただの「女」という記号になる。
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