33.セフレでもいいから…
彼の手が私の背中を包み込む感触は変わらないが、その力は私を拘束するためではなく、距離を測るように優しく、そして冷たく一定だ。
私の唇が離れても、彼はそれを追ってはこない。
代わりに、苦しげに歪んだ眉が、至近距離で私の網膜に焼き付く。
「……かすみさんは、まだ若いです」
彼が口を開く。
その声は、重たい真実を含んで湿り気を帯びていた。
「色んなところに行って、色んな世界を見たら……僕なんかよりいい男なんて、いくらでもいますよ」
拒絶。
いいえ、それはもっと残酷な、大人の分別という名の刃だ。
「僕なんか」という謙遜で自身を下げながら、その実、私という存在を「対象外」へと押しやっている。
未来がある。
若い。
可能性がある。
それらは全て、今の私には皮肉にしか聞こえない。
私の時間は、あの薄暗い風俗店の待機室で止まっている。
私の身体は、不特定多数の男たちの手垢で汚れている。
いい男?
そんな人間が、私のような傷物の女を選ぶはずがない。
選ぶとしたら、それは「買う」時だけだ。
世界のロジックは、いつだって冷徹で、シンプルだ。
視界が揺らぐ。
脳裏に、あの青白いスマートフォンの画面がフラッシュバックする。
匿名掲示板の文字の羅列。
『風俗嬢に本気になる男なんていない』
『世間体を考えろ』
『うつ病は地雷』
『病気の女と付き合うメリットなんてゼロ』
そうだ。
忘れていた。
私は地雷なのだ。
まともな神経をした人間が避けて通るべき、危険で汚らわしい廃棄物。
彼が優しいのは、彼が異常なお人好しだからであり、私が愛される価値を持っているからではない。
私が彼氏になってほしいなどと望むこと自体が、身の程知らずの傲慢だったのだ。
名前。
ふと、思考が停止する。
私は、この人の名前すら知らない。
「おじさん」と呼び、「パパ」として扱い、身体を重ね、心を預けようとしているのに。
彼の本名も、住所も、勤めている会社も、何一つ知らない。
アインの表示名はニックネームだ。
私たちは、それほどまでに遠い場所にいる。
透明な壁が、音を立てて私たちの間に落下してくるのが見えた気がした。
「ご、ごめんなさい……」
唇が震え、言葉がこぼれ落ちる。
「そ、そうですよね……当たり前、ですよね」
私は彼の胸から顔を離し、シーツを握りしめる。
爪が白くなるほど力を込める。
「私みたいな……売春女じゃ、だめなんですよね……」
口に出してしまった。
自分自身に焼き付けた焼印を、彼の前で晒す。
きれいでも、優しくもない。
ただ金のために股を開く、卑しい女。
彼が眉を顰めるのがわかる。
不快にさせたかもしれない。
面倒だと思われたかもしれない。
それでも、言葉は止まらない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
壊れたレコードのように謝罪を繰り返す。
何に対して謝っているのか、自分でもわからなくなる。
生まれてきたことにか。
汚れてしまったことにか。
それとも、彼に不相応な夢を見てしまったことにか。
涙がシーツに落ち、黒い染みを作る。
けれど。
このまま彼を失うことへの恐怖が、プライドも尊厳もすべて粉砕した。
嫌だ。
切り捨てられたくない。
たとえゴミ扱いでもいい。
視界の隅に置かれるだけでもいい。
この温もりを失うくらいなら、私はどんな屈辱でも受け入れる。
私は濡れた目で彼を見上げ、縋るように彼の手首を掴んだ。
「で、でも私は……本当に、おじさんのことが……」
好きなんです。
その言葉は、喉元で詰まって出てこない。
商品が客に恋をするなど、契約違反だ。
だから、私は別の取引を提示する。
私に残された、唯一の商品価値を使った取引を。
「お願いします……手当なしでも、大丈夫だから」
金はいらない。
生活費もいらない。
「今後も、私のこと……たくさん呼んでもらえますか?」
彼の瞳が大きく見開かれる。
私はさらに言葉を重ねる。
「そ、そう……セフレみたいな関係で……私を、おじさんのセフレにさせてもらえませんか……?」
最低の提案だ。
「彼女にして」という願いが叶わないなら、「便器にして」と頼んでいるのと同じだ。
都合のいい女。
性欲処理の道具。
それでも、彼と繋がっていられるなら。
たまに頭を撫でてもらえるなら。
私はそれで生きていける。
心臓が張り裂けそうだ。
自分がここまで浅ましい人間だったとは知らなかった。
静寂が落ちる。
エアコンの風音だけが響く部屋で、私は処刑を待つ囚人のように目を閉じた。
軽蔑されただろうか。
「やっぱり風俗女だ」と呆れられただろうか。
次の瞬間、強い力が私を引き寄せた。
衝撃。
彼の腕が、今までで一番強く、私の背骨がきしむほどの力で抱きしめていた。
痛いほどだ。
「……セフレなら、だめですよ」
耳元で囁かれる声は、かすかに震えていた。
拒絶の言葉。
やはり、セフレですらお断りなのだ。
私はそう理解してしまい、胸の奥が一気に冷えていく。
絶望に身を委ねるように、力を抜こうとした。
けれど、彼は私を離さなかった。
「かすみさん」
彼は私の肩に顔を埋めたまま、深く息を吸い、祈るように言った。




