34.友達から、始めましょう
彼が口を開き、静かな声で告げる。
「かすみさんは、とても優しくていい子だから、パパ活にはふさわしくないと思います」
優しくて、いい子。
その単語が鼓膜を震わせ、肋骨の内側で反響する。
私は瞬きを忘れ、彼の顔を凝視した。
数日前、ネットの掲示板や見知らぬ男たちから投げつけられた言葉たちが脳裏をよぎる。
メンヘラ。
地雷。
社会不適合者。
それらの鋭利な礫によって傷だらけになった自意識を、彼の言葉が覆していく。
彼は私の現状を否定したのではない。
私が今立っている場所が、私という人間には似合わない泥沼だと指摘し、そこから引き上げようとしているのだ。
「ふさわしくない……」
私は鸚鵡返しに呟く。
今まで、誰もそんなことを言ってはくれなかった。
「向いてないから辞めろ」と罵倒されることはあっても、「君は綺麗だからここにいてはいけない」と諭してくれる人はいなかった。
視界が滲む。
彼の手が私の肩に置かれ、温かい熱が服越しに伝わってくる。
「パパ活やめてから、友達から、始めてもらえますか」
彼の口から紡がれたのは、予想もしない言葉だった。
「と、ともだち……?」
聞き慣れない響きに、私は首を傾げる。
男女の関係において、それは最も遠く、そして最も安全なカテゴリだ。
「はい。普通にご飯食べて、普通に遊んで……」
彼は私の目を見て、真剣に続ける。
「映画を見たり、水族館に行ったり。そういう普通のことを、かすみさんとしたいんです」
対等で、金銭の介在しない、純粋な人間関係。
彼は今、目の前にいる私という一人の人間を見て、向き合おうとしてくれている。
二万の女としてではなく、名前を持った友人として。
「かすみさんがパパ活、やめてもらえませんか?」
彼は少し身を乗り出し、懇願するように言った。
「お金がほしいなら、他にも稼げる仕事があります。パパ活ほど稼げないかもしれませんが……それでも」
言葉を切る。
彼の瞳には、打算や欲情の色は一切ない。
「パパ活とか、かすみさんにしてほしくないんです」
ああ、この人は本当に、どこまでも優しい。
彼は「友達」という言葉を使いながら、それを隠れ蓑にして私をキープしようとはしていない。
「セフレは嫌だけど友達ならタダで遊べる」というような、卑しい計算は微塵もない。
そこにあるのは、一人の人間としての私への、純粋な懸念だけだった。
息が止まる。
この人は、本気だ。
私を「安く使える穴」として確保するためでも、善人ぶって悦に浸るためでもない。
本気で、私の人生を心配し、私の未来を守ろうとしている。
底なしだ。
この人の優しさは、私の知っている「男の優しさ」の枠組みを遥かに超えている。
見返りを求めない。
身体を求めない。
ただ、私が私として生きることを肯定し、応援してくれる。
「パパ活やめてから……友達から、始めてもらえますか」
彼はもう一度、念を押すように繰り返した。
提示された条件。
それは、私たちが繋がっていた唯一の線である「金銭」という鎖を断ち切ることだ。
金を介さない関係など、私には未知の領域だった。
価値のない私が、ただの私として彼の隣にいること。
それは「彼氏」よりも「セフレ」よりも、ある意味で恐ろしく、そして何よりも尊い提案だった。
彼氏でもない。
セフレでもない。
友達。
断る理由など、どこにもなかった。
私はしゃくりあげながら、何度も頷いた。
「はい……はいっ……!」
言葉にならない。
ただ、彼の胸に飛び込み、再びその温もりに縋り付いた。
彼は安堵したように息を吐き、私の頭を優しく撫でた。
髪を梳く指の動き。




