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32.元カノみたいに、優しく

おじさんの腕がゆっくりと動き、私の背中に回される。


筋肉の収縮が伝わり、抱擁の圧力が増す。


肋骨がきしむほどの強さではない。


私が壊れないように、かつ逃げ出さないように計算された、綿密な力加減だ。


耳元で、彼のため息が落ちる。


「商品なんて言っちゃだめですよ」


低い声が鼓膜を震わせる。


諭すような、幼子に言い聞かせるような響きだ。


「かすみさんはきれいで、優しい人ですから。自分のことも、大事にしてください」


その言葉は、私の心の最も脆い部分に突き刺さる。


きれいで優しい人。


そんな風に私を定義してくれるのは、世界中でこの人だけだ。


涙が滲み、彼のシャツに染みを作っていく。


私は汚れている。


数日前には別の男の下で喘いでいた、ただの売春女だ。


それなのに、彼は私を肯定してくれる。


この温もりに包まれていると、本当に私が価値のある人間のように思えてくるから恐ろしい。


私は彼の背中に手を回し、しがみつくように指を食い込ませた。


このまま溶けてしまいたい。


彼の一部になって、二度と離れられないようになればいい。


「僕は……」


彼が言葉を濁し、わずかに身じろぎする。


抱きしめる力が少しだけ緩み、彼は私を見下ろすように顔を上げた。


至近距離で絡み合う視線。


「僕は……かすみさんと一緒にいたら、つい元カノみたいに優しくしてあげたいんです」


元カノ。


その単語が落ちた瞬間、私の体温が一度下がる。


みたいに。


その助詞が、私と彼の間にある決定的な溝を浮き彫りにする。


彼は私を見ていない。


私という個体を見ているのではない。


私の背後に、過去に愛した誰かの幻影を重ねているだけだ。


私が受け取っていた温かな眼差しも、丁寧な愛撫も、献身的な気遣いも。


すべては私宛ての手紙ではなかった。


宛名のない、あるいは宛先不明で戻ってきた愛を、たまたま近くにいた私が開封してしまっただけだ。


リサイクル。


廃品利用。


彼の優しさは、私というゴミを処理するためのものではなく、彼自身の未練を処理するための儀式だったのだ。


胸の奥に鉛が沈む。


喪失感が広がる。


私はただの代用品。


練習相手という言葉の意味が、より残酷な響きを持って反芻される。


けれど。


沈んでいく意識の底で、どす黒い火種が燻り始めた。


代用品で何が悪い。


理由はなんであれ、彼は今、私を抱きしめている。


元カノはもういない。


ここにいるのは私だ。


もし、私が彼の「彼女」という空席に座ることができれば。


この異常なまでの優しさを、正当な権利として独占できるのではないか。


幻影でもいい。


身代わりでもいい。


彼が私に向け続けるこの甘い蜜を、すべて吸い尽くしたい。


他の誰にも渡したくない。


あの脂ぎった男たちのような、欲望だけの視線に晒される世界には戻りたくない。


この聖域を、私の領土にしたい。


歓喜にも似た欲望が、血管を駆け巡る。


そうだ。


私が彼の「彼女」になればいい。


練習を本番に書き換えればいい。


私は顔を上げた。


至近距離にある彼の唇。


迷いはなかった。


私は背伸びをし、自分の唇を彼のそれに押し付けた。


触れるだけの、小鳥のようなキス。


彼の唇は柔らかく、そして驚くほど熱かった。


「っ……」


彼が息を呑む音が聞こえる。


体が微かに震えたのが伝わる。


私は目を閉じたまま、さらに深く踏み込もうとした。


唇を開き、舌を忍ばせようとする。


その瞬間。


彼の首が、わずかに後ろへ引かれた。


拒絶。


あるいは、躊躇。


明確な抵抗ではないが、受け入れのサインでもない。


壁がある。


元カノというものを守ろうとする、彼の理性の壁だ。


私は唇を離し、潤んだ瞳で彼を見つめた。


逃がさない。


ここで引いたら、私はまた「商品」に戻るだけだ。


私は彼の方に手を置き、逃げ道を塞ぐように指に力を込めた。


「私は……」


声が震える。


これは営業ではない。


パパ活のテクニックでもない。


私の魂からの叫びだ。


「おじさんの優しさが、好きです」


真っ直ぐに彼の瞳を射抜く。


「彼氏に、なってもらえませんか?」


二万円の関係はいらない。


時間が来れば終わる契約もいらない。


私が欲しいのは、あなたという存在そのものだ。


私の全てを委ね、私を肯定し続けてくれる、優しい人。


沈黙が落ちる。


部屋の空調の音だけが響く。


彼の瞳が揺れている。


私の言葉が、彼の理性を侵食していくのを待つ。


お願い。


頷いて。


私を、あなたのモノにして。

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