30.遠回しな気遣い
彼の手が私の背中に回り、身体が引き寄せられる。
抗う間もなく、私の顔は彼の胸板に押し付けられた。
硬い骨格の感触と、洗剤の清潔な香り。
心臓の鼓動が、私の耳元でトクトクと規則正しいリズムを刻んでいる。
私は驚きに目を見開き、硬直したまま息を止める。
色仕掛けで誘ったつもりだった。
欲に火を点け、身体の関係に持ち込むことで、彼を繋ぎ止めようとした。
けれど、この抱擁には性欲がない。
背中に回された彼の腕が、強く、それでいて壊れ物を扱うように慎重に、私を閉じ込めた。
世界から切り離されたような閉塞感と、絶対的な安全圏に守られたような安堵感が同時に押し寄せる。
心臓の音が、私のものなのか彼のものなのか判別がつかないほど重なり合う。
「……今日のかすみさんは、頑張りすぎましたよ」
頭上から降ってくる声は、公園のざわめきを遮断するほどに優しく、そして残酷なほどに的確だ。
彼は気づいていた。
私が美容院に行き、新しい服を着て、必死に「明るい彼女」を演じていたことを。
「活発になった」という言葉は、褒め言葉ではなく、無理をしている私への遠回しな気遣いだったのだ。
彼の指先が、私の首筋に触れる。
温かい指の腹が、強張った筋肉を捉え、ゆっくりと円を描くように動く。
それは、以前ホテルで私が彼に教えたマッサージの手つきそのものだった。
「っ……」
力が抜ける。
張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた。
私の仮面が剥がれ落ちる。
「……ええ、いきましょう。ゆっくり休みましょう」
彼は私を離し、けれど手はしっかりと握ったまま、穏やかな瞳で私を見る。
そこには、肉体を貪ろうとする獣の色はない。
疲弊した迷子を保護施設へ導くような、庇護者の目だ。
私の計算はすべて狂った。
彼を誘惑するつもりが、逆に私が救済されようとしている。
「ご、ごめんなさい……やりすぎたかも、しれません」
私は俯き、震える声で謝罪する。
恥ずかしさで顔が熱い。
金で繋がる関係なのに、彼に心配をかけ、気を使わせている自分が情けない。
「ありがとうございます……」
蚊の鳴くような声でお礼を言うのが精一杯だった。
私たちは公園を出て、街の雑踏へと戻る。
ラブホテル街への道。
本来なら欲望と背徳が渦巻くその道行が、彼と歩くと、まるで療養所へ向かう巡礼のように静謐なものに感じられた。




