29.まだ、終わりじゃないよね?
「……ええ、がんばりますね」
彼は視線を足元の砂利に向けたまま、小さく頷いた。
その声は低く、口の中で呟くように籠もっていた。
私の耳に届いたのは、期待していた弾むような肯定ではなく、どこか重苦しい、感情の色彩を欠いた音だった。
風が止まり、頭上の木々のざわめきがふいに途絶える。
繋いだ手から伝わる彼の脈動も、心なしか乱れているように感じる。
私は眉を僅かに寄せ、彼の横顔を盗み見る。
表情が読めない。
頬は赤いままだけれど、その目はどこか遠くを見ているようで、私の存在を捉えていないように見えた。
不安という冷たい雫が、熱を帯びていた胸の内にポツリと落ちる。
なぜ、そんな反応をするのだろう。
私の知っている男たちなら、この状況で若い女から「彼氏役」を求められれば、鼻の下を伸ばして喜ぶはずだ。
「任せとけよ」とか「じゃあキスもしないとね」とか、下卑た冗談の一つでも飛ばしてくるのが普通だ。
けれど彼は、まるで重い荷物を背負わされたかのように、言葉を飲み込んでいる。
もしかして、嫌だったのだろうか。
調子に乗って距離を詰めすぎたせいで、引かれてしまったのだろうか。
「練習」という名目でベタベタと触れる私を、内心では厚かましいと思っているのかもしれない。
脳内でネガティブな検索結果が羅列される。
掲示板の辛辣な言葉がフラッシュバックする。
『調子に乗るな』
『勘違い女』
私は唇を噛み、握っていた彼の手のひらから、力を少しだけ緩めた。
無言のまま数分が過ぎた。
砂利道が終わり、舗装された遊歩道へと変わる。
その先には、公園のゲートが見えていた。
日常と非日常を隔てる境界線。
あのゲートをくぐれば、私たちはまた「パパ」と「パパ活女子」という無機質な関係に戻る。
彼は駅に向かい、私は一人でアパートへ帰る。
そしてまた、いつ鳴るとも知れない通知を待つだけの、孤独で色のない時間が始まるのだ。
嫌だ。
強烈な拒絶反応が、胃の底から突き上げてくる。
まだ帰りたくない。
もっとこの人の体温を感じていたい。
さっきの「楽しかった」という感覚は、ただの演技ではなかった。
彼といる時の私は、確かに生きていた。
汚い過去も、病んだ心も忘れて、普通の女の子として呼吸ができていた。
それを手放したくない。
このまま解散してしまえば、彼はまた来週まで消えてしまうかもしれない。
もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。
恐怖が理性を凌駕する。
私は立ち止まり、彼の袖口をぎゅっと握りしめた。
「……おじさん」
呼びかける声が震えないように、腹に力を入れる。
彼が足を止め、不思議そうに私を振り返る。
その無防備な瞳が、私を射抜く。
私は顎を引き、計算された角度で彼を見上げた。
潤んだ瞳。
少しだけ開いた唇。
男が断れない表情を作る。
これは武器だ。
私が生き延びるために身につけた、数少ない卑怯な武器だ。
「まだ、終わりじゃないですよね?」
彼の袖を引く手に力を込める。
布越しに、彼の腕の硬さが伝わってくる。
「デートの練習なら……まだ、やることありますよね?」
言葉の裏に、粘着質な意味を潜ませる。
デートの行き着く先。
男女が二人きりになって、肌を重ね、熱を確かめ合う場所。
先週、私たちが一晩を過ごしたあの場所への招待状だ。
「次のレッスン……まだ、ありますよね?」
問いかける言葉は、先生としての指導ではない。
愛に飢えた女の、なりふり構わない懇願だった。
心臓が早鐘を打つ。
断られたらどうしよう。
「今日はここで」と線を引かれたら、私は立ち直れないかもしれない。
それでも、私は彼という麻薬なしでは、もう明日を迎える自信がなかった。
「……ねえ、おじさん」




