28.演技か、感情か
私はベンチの硬い感触を背に感じながら、隣に座る彼の横顔を見つめた。
木々の緑が視界の端で揺れ、木漏れ日が不規則な模様を地面に描いている。
肩と肩が触れ合うか触れ合わないかの、微細な距離。
そこには熱の伝導があり、確かな他者の存在感がある。
彼が小走りで戻ってくる。
手には二本のペットボトル。
息を少し弾ませ、額に薄っすらと汗を浮かべている姿は、まるで忠実な大型犬のようだ。
「お待たせしました。ほうじ茶で、よかったですか?」
彼は隣に座り直し、ペットボトルを差し出す。
受け取ろうと手を伸ばしかけた瞬間、彼は一度手を引っ込めた。
何事かと見つめる私の前で、彼はキャップを回し、パキッという乾いた音を立てて封を切る。
そして、軽く緩めてから、改めて私に手渡した。
「どうぞ」
自然な動作。
見返りを求めない、呼吸のような親切。
私の胸の奥で、小さく鐘が鳴る。
先日会った脂ぎった男は、自分のワインだけを注ぎ、私にはメニューすら見せなかった。
比較することすら冒涜に思えるほどの落差。
この人は、本当に優しい。
女性を練習台にする必要などないほどに、彼は最初から完成されているのではないか。
いや、この優しさは、彼が傷つくことを恐れている裏返しかもしれない。
けれど、今の私にはその臆病さが心地よい。
「……ふふ」
冷たいボトルを受け取り、私は自然と笑みをこぼした。
「おじさん、それもポイント高いですよ」
「えっ?」
「キャップを開けて渡すの。女の子はネイルしてる子も多いし、握力ない子もいますから。そういう気遣い、すごく嬉しいです」
私は先生として採点するように、けれど恋人のように甘く告げる。
「合格点です」
「あ、ありがとうございます……」
彼は照れくさそうに頭をかき、自分のお茶を一口飲んだ。
「かすみ先生に褒められると、自信がつくなあ」
先生。
その響きが、私と彼の間に引かれた安全な境界線を再確認させる。
私たちは「練習」をしているのだ。
だから、この甘い空気も、近すぎる距離も、すべては演習の一環として許される。
私はボトルを膝の上に置き、彼の顔を覗き込んだ。
至近距離。
彼の睫毛の長さまで数えられるほどの近さ。
彼の肌は健康的で、目尻には笑い皺が刻まれている。
私の汚れた視線が、彼の清らかな輪郭をなぞる。
「……おじさん」
「は、はい」
彼は視線を泳がせ、私と目を合わせられずにいる。
その反応が愛おしくて、私はさらに顔を近づけた。
「私、先生じゃなくて、今は『彼女役』ですよ? もっとこっち見てください」
私の言葉に、彼が意を決したように顔を向けた。
視線が絡み合う。
彼の瞳の中に、私の顔が映っている。
綺麗にメイクをし、可愛い服を着て、微笑んでいる私。
その虚像の私が、彼の瞳の中で永遠に生き続ければいいのに。
汚い過去も、病んだ心も、すべて隠蔽されたまま。
「……今日のかすみさんは、その……」
彼が口籠る。
言葉を選んでいるようだ。
私は瞬きをせずに待つ。
「その、前より……活発してますね。元気というか……すごく、キラキラして見えます」
活発。
キラキラしている。
その言葉は、予想外の角度から私を射抜いた。
私は一瞬、呼吸を止めた。
活発なのではない。
必死なのだ。
彼に嫌われないように、彼を繋ぎ止めるために、死に物狂いで「明るい女の子」を演じているだけだ。
薬で感情の波を抑え込み、恐怖を笑顔の下に塗り込めているだけだ。
けれど。
彼の瞳に映る私は、確かに輝いているらしい。
それは私の演技力が高いからか。
それとも、彼と一緒にいるこの時間が、本当に私に光を与えているのか。
おそらく、両方だ。
彼といる時の私は、嘘の中にほんの少しの真実を混ぜ込んでいる。
楽しいという感情。
嬉しいという感情。
それらは演技ではない。
彼が引き出してくれた、錆びついていたはずの私の感情だ。
「……そうですか?」
私は視線を外し、ボトルのラベルを指先でなぞった。
「おじさんが、そうさせてくれてるんですよ」
これは嘘ではない。
彼がいなければ、私は今頃、暗い部屋でゴミに埋もれて死んだように眠っていたはずだ。
彼が私を外の世界へ連れ出し、こうして太陽の下で笑わせてくれている。
「私、おじさんといると……楽しいんです。だから、元気になれるのかも」
私は顔を上げ、再び彼を見た。
今度は演技ではなく、心の底からの感謝を込めて微笑んだ。
「だから、もっと私を元気にしてくださいね? ……彼氏さん」




