3.風俗嬢になった日
新宿の雑踏は、私を拒絶する巨大な生き物の内臓のようだと言いたくなるが、そう形容するにはあまりに無機質だ。
アスファルトの照り返しが目を焼く。
スーツの背中を、冷たい汗が伝う。
転職エージェントの入る高層ビルの自動ドアが開く。
冷房の効いた空気が肌を刺す。
受付の女性が完璧な笑顔で私を迎えるが、その目は私を値踏みしているように見える。
番号札を受け取り、椅子に座る。
指先が小刻みに震えているのを、鞄の下で強く握りしめて隠す。
名前を呼ばれる。
面接室のドアノブが、処刑台のスイッチのように重い。
狭い個室で、面接官と対峙する。
「前職を退職された理由は?」
ありふれた質問だ。
用意してきた回答がある。
『キャリアアップのため』『新しい分野に挑戦したくて』。
喉まで出かかった言葉が、突然凝固する。
心臓が肋骨を内側から殴りつけるように脈打つ。
視界の端が白く明滅する。
呼吸が浅くなり、空気が肺に入ってこない。
口を開くが、ヒューという乾いた音しか出ない。
面接官の怪訝そうな顔。
眉間の皺。
「大丈夫ですか?」
その言葉が、私の無能さを証明する判決文のように響く。
「す……すみません」
私は椅子を蹴るように立ち上がり、部屋を飛び出した。
トイレの個室に駆け込み、便器に顔を近づけるが、胃の中は空っぽで何も出てこない。
ただ、胃液の酸っぱい臭いだけが鼻につく。
履歴書の「職歴」欄の下には、空白が広がっている。
その白さは、雪原のように私の未来を閉ざしている。
コンビニのATM。
画面に表示された数字は、先月よりも確実に減っている。
引き出した千円札を財布に入れるとき、指が紙幣の縁で切れそうになる。
この紙切れがなければ、私は水を飲むことも、屋根の下で眠ることも許されない。
社会というシステムは、歯車の噛み合わなくなった部品を容赦なく排除する。
アパートの部屋に戻り、カーテンを閉め切った暗闇の中で膝を抱える。
誰かに話したい。
誰かに助けてと言いたい。
けれど、アドレス帳の誰の名前を見ても、通話ボタンを押す勇気が出ない。
親には言えない。
友人たちは皆、光の中で生きている。
闇の中にいる私を直視させたくない。
スマートフォンのブルーライトだけが、私の唯一の話し相手だった。
匿名掲示板。
顔も見えない、名前も知らない誰かとの文字だけの会話。
『仕事が見つからない』
『もう死にたい』。
そんな弱音を吐き出すと、一人の女性から返信があった。
『私もそうだったよ。真面目すぎると壊れちゃうよね』
優しい言葉に、涙が滲む。
画面の向こうの彼女は、私の痛みを理解してくれている気がした。
やり取りを重ねるうちに、彼女は言った。
『今、風俗嬢してるけど、すごい稼げるよ』
『風俗嬢?』
私は思わず、首を横に振っていた。
それだけは嫌だ。
体を売るなんて、人としての最後の尊厳を、自分の手で捨てる行為だ。
――まだだ。
私はまだ、会社員としての自分を取り戻せるはず。
『無理です。そこまでは落ちたくない』
送信ボタンを押した指が、かすかに震えていた。
『最初は怖いけど、割り切ればただの仕事だし。即金だし、気軽に月収100万だよ』
……100万?
思考が、その数字の前でぴたりと止まった。
否定したい。
必死に否定したいのに、かつて正社員として月手取り二十万円だった私にとって、『気軽に月収100万』という言葉は、価値観そのものを叩き壊す破壊力を持っていた。
風俗をやれば
正社員として一生かかっても届かないかもしれない年収一千万円の壁を、簡単に踏み越えられるというの?
世界が狂っているのか。
それとも、私がずっと、何もわかっていなかっただけなのか。
わからない。
でも――
体を売りたくない、というプライドだけが、崩れかけた理性を、ぎりぎりのところで繋ぎ止めていた。
『……ごめんなさい。私には無理です』
数日後、郵便受けに赤い封筒が入っていた。
家賃滞納の督促状。
「法的手段」という文字が、私の眼球を突き刺す。
大家の怒った顔が脳裏に浮かぶ。
追い出されたら、どこへ行けばいい?
公園のベンチ?
ネットカフェ?
所持金は数千円。
来週には携帯も止まる。
空腹で胃が痛む。
冷蔵庫には水しかない。
私は床に崩れ落ち、督促状を握りしめた。
紙がくしゃくしゃになる音だけが部屋に響く。
尊厳?
プライド?
そんなもので腹は膨れない。
そんなもので雨風は凌げない。
生きるためには、食べるためには、金が必要だ。
金を得るための手段を選べる立場になんて、もうとっくにいないのだ。
私は震える手でスマートフォンを手に取り、あの掲示板を開いた。
画面が滲んでよく見えない。
「……教えてください。その、お店のこと」
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