2.値段のついた優等生
電車の窓ガラスに、私の顔がぼんやりと映っている。
地下鉄のトンネルの壁が黒い帯のように流れていく。
この顔は、かつて周囲が称賛したものと同じ造作をしているはずだ。
大学時代の記憶が、不意に脳裏をよぎる。
ゼミの会計担当として帳簿を整理する指先。
学内広報サークルの副代表として、新入生の前でマイクを握る光景。
成績表に並ぶ「優」の文字。
教授が私の肩を叩き、「君は真面目で責任感が強い」と目を細める。
就職活動の面接官が、私の履歴書を見て深く頷く。
私は完璧な学生だった。
周囲は私を「堅実」「安定志向」と評した。
私もそう信じていた。
けれど、それは私の本質ではない。
誰かに頼み事をされたとき、喉の奥で「嫌だ」という言葉が詰まり、代わりに「いいですよ」という音が口から出る。
相手の期待する表情を見ると、それを裏切る恐怖で胃が縮む。
あの頃から、私は私自身の意思を殺す訓練を続けていたのだ。
それが呪いだと気づくのは、もっと後のことだった。
新卒で入った会社は、都内に本社を構える中堅の商社だった。
デスクの上に書類の山ができる。
先輩社員が書類の束を私の机に置き、「新人だから勉強になるよ」「君は要領がいいから助かる」と笑う。
私は引きつった笑顔で頷き、キーボードを叩く速度を上げる。
三年が過ぎた頃、窓の外が明るくなるまでオフィスにいることが日常になった。
終電の揺れに体を預け、家に着くと服も着替えずにベッドへ倒れ込む。
休日は泥のように眠り、目が覚めるとまた月曜日の朝が来ている。
天井を見つめる。
指一本動かすのにも、莫大なエネルギーが必要だった。
私の心は、すり減り、削られ、もう原型を留めていない。
ある雨の夜だった。
狭いワンルームで、雨音が窓を叩く音を聞いていた。
明日もまた、今日と同じ一日が始まる。
その事実が、巨大な質量を持って私を押し潰した。
呼吸が浅くなる。
視界が揺れる。
気づけば、私の手にはカッターナイフが握られていた。
冷たい刃先を左腕の皮膚に当てる。
力を込める。
皮膚が裂け、熱い痛みが走る。
赤い液体が線を描いて溢れ出し、白い床に滴り落ちる。
一度、二度、三度。
痛みよりも、鮮明な赤色が視界を埋め尽くすことに安堵を覚えた。
これで終われる。
しかし、意識が遠のく前に、恐怖が勝った。
震える手でタオルを巻きつけ、タクシーを呼んだ。
病院の白い処置室で、医師が淡々と言った。
「もう少し深かったら、死んでいましたよ」
精神科の待合室。
渡された診断書には「うつ病(中等度)」という文字が印字されていた。
私は死ぬことさえ、完璧にはできなかった。
会社には「体調不良」とだけ伝えた。
復職した私の鞄には、エスシタロプラムや睡眠導入剤のシートが入っている。
朝、白い錠剤を口に含み、水で流し込む。
苦味が喉に残る。
デスクに座り、電話を取る。
相手の声を聞きながら、突然、視界が歪んだ。
涙が頬を伝い、受話器を持つ手が震える。
思考が真っ白になり、言葉が出てこない。
「申し訳ありません、少々お待ちください」
保留ボタンを押し、トイレに駆け込む。
個室の鍵をかけ、便座の蓋の上に座り込む。
声を殺して泣く。
呼吸が過呼吸気味になり、胸が苦しい。
給湯室で冷たい水を飲み、赤くなった目を冷やす。
そしてまた、席に戻る。
そんなことを何度も繰り返した。
会議室に呼び出されたのは、冬の寒い日だった。
人事部の女性と、直属の上司が座っている。
机の上には一枚の書類。
「今の君の状態では、戦力として数えるのは難しい」
人事担当者が、感情のこもっていない声で告げる。
上司は私と目を合わせようとしない。
窓の外では、枯れ葉が風に舞っていた。
形式上は「自己都合退職」。
けれど、それは明白な切り捨てだった。
私が身を削って尽くした組織は、壊れた私をあっさりと廃棄した。
退職届に印鑑を押すとき、手が震えたのは悔しさからではなかった。
ただ、これでやっと解放されるという、諦めに似た安堵だった。
ペンを置き、私は深く息を吐いた。
「……お世話になりました」




