1.私の値段
無機質なホテルのベッド。
乱れたシーツには、他人の体温だけが場違いにまとわりついている。
「やっぱかすみちゃんは可愛いな。ちょっとエッチ下手だけど、顔とスタイルは値段以上だ」
シャツのボタンを留めながら、男が満足げに笑う。
「ありがとうございます。私も、最高に気持ちよかったです」
私は引きつりそうになる頬の筋肉を制御し、定型文のような作り笑いを貼り付けて答えた。
「じゃ、また今度空いたら呼ぶね」
サイドテーブルに無造作に置かれた4万円を残して、客は部屋を出て行った。
ドアが閉まる鈍い音が、脳の奥に響く。
彼のニックネームは「マツトン」。
40歳手前の、私の数少ない常連客の一人だ。
残された4枚の諭吉を、感情のない目で見つめる。
4万円。
それが私の値段だ。
今年25歳。
偽名「かすみ」で活動している。
顔の造作のお陰で、下手な私でも相場の数字は取れている。
マツトンは笑って許してくれるが、反応がなさすぎて「マグロ」だと、他の男から吐き捨てるように言われたことは一度や二度ではない。
会話が続かない。
愛想笑いしかできない。
気の利いたメッセージ一つ送れない。
だから、マツトンのような物好きな男以外、常連なんてほとんどつかない。
ホテルを出て自分のアパートに戻ると、部屋の中は朝だというのに薄暗かった。
ベッドに倒れ込むと、放り投げたスマートフォンが青白く発光した。
『Finder』からの通知。
画面の中で、数字だけが機械的に増えていく。
私はあらかじめ登録された定型文のボタンをタップし、届いた新規メッセージに対して作業のように返信を重ねた。
「カフェ1、大人4、ホテル代別。これでよければ」
送信。
画面の向こうにいる、名前も顔も知らない男からの返事は即座についた。
『了解』という短いスタンプ。
私は短く息を吐き、スマホの画面を伏せた。
それでも、このちっぽけな端末の中で動く数字は、かつて私が正社員としてあくせく働いていた頃の給与明細よりも、遥かに効率よく、そして残酷に増えていく。
鉛のように重たい体を起こし、クローゼットの前へ立つ。
私は並んだハンガーの中から、淡いベージュのブラウスと、膝丈のタイトスカートを選び出した。
どこにでもいる、真面目で清楚なOL。
下着だけになった体が、ひんやりとした部屋の空気に晒される。
姿見の中に、栗色の長い髪を垂らした女が映っていた。
整った目鼻立ちに、白く滑らかな肌。
両親には感謝すべきなのかもしれない。
誰もが振り返るような容姿を持ちながら、その中身は空洞だ。
ブラウスに袖を通そうとして、視線が左腕に落ちる。
手首から肘にかけて、白いミミズ腫れのような線が幾筋も走っている。
指でその凹凸をなぞった。
硬く、感覚の鈍い皮膚。
かつて私が、この部屋で全てを終わらせようとした証拠。
あの時、確かに私は一度死んだはずだった。
今ここに立っているのは、余生を無為に消化しているだけの肉の塊に過ぎない。
『正社員になれてよかったわね』『体に気をつけて頑張るのよ』
定期的にかかってくる電話口で、実家の母はいつも嬉しそうに言う。
その言葉を聞くたび、私は受話器の向こうで無言で頷き、この傷跡を爪で強く押し潰す。
痛みだけが、嘘をつき続けている罪悪感をわずかに相殺してくれる気がした。
月に一度の、心療内科への通院日。
私はブラウスのボタンを一番上までしっかりと留め、忌まわしい傷跡を完全に隠した。
スカートのファスナーを上げ、パンプスを履く。
鏡の前で口角を上げ、不自然ではないか最終確認をする。
完璧だ。
どこからどう見ても、丸の内のオフィス街を歩いているような会社員。
重たい鉄の扉を開けると、昼下がりの生ぬるい風が、無表情な私の頬を撫でた。
「……行ってきます」
誰もいない暗い部屋に向かって小さく呟き、私は現実へと足を踏み出した。
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