25.土曜日の約束
スマートフォンの通知音が静寂を破る。
私は跳ねるように画面を確認した。
緑色のアイコンに赤いバッジが付いている。
表示された名前は、待ち望んでいた「おじさん」でもなければ、三毛猫のアイコンでもない可能性が高い。
また『Finder』からの無機質な勧誘かもしれない。
あるいは、公式アカウントからの宣伝通知かもしれない。
期待と恐怖で指が震える。
ロック画面を解除する。
アインのトークリストの一番上に、見慣れた三毛猫のアイコンが浮上していた。
心臓が肋骨を強く叩く。
息を呑み、トークルームを開く。
『こんばんは、かすみさん。夜分にごめんなさい』
『先週は本当に申し訳なかったです。急なトラブルで、どうしても抜け出せなくて』
『ようやく落ち着きました。もしよければ、今週の土曜日、お会いできませんか?』
文字を目で追う。
一度では理解できず、二度、三度と読み返す。
謝罪。
理由の説明。
そして、再度の誘い。
彼は私を切り捨てていなかった。
忘れていなかった。
面倒になったわけでも、飽きたわけでもなかった。
ただ、本当に忙しかっただけなのだ。
私の脳内で勝手に組み上げられた「嫌われた」「捨てられた」という最悪のシナリオが、音を立てて崩れ去っていく。
代わりに、温かい血液が全身を巡り始める。
指先の冷たさが消える。
肺が大きく膨らみ、新鮮な酸素を取り込む。
生きていていいと、許可証を与えられたような感覚だった。
画面の中の彼は、変わらず丁寧で、私を気遣っている。
『ご都合が悪ければ、合わせますので遠慮なく言ってくださいね』
追撃のスタンプ。
魚をくわえた猫が、申し訳なさそうに頭を下げている。
かわいい。
思わず口元が緩む。
けれど次の瞬間、胃の底から冷たい塊がせり上がってきた。
私はこの数日間、何をしていたのだろう。
彼を信じきれず、勝手に絶望し、ネット掲示板で彼のことを晒し、挙句の果てには見ず知らずの小汚い男に股を開いた。
彼の優しさを疑い、保険をかけるために自分を汚した。
「……ごめんなさい」
誰もいない部屋で呟く。
彼は仕事で必死に戦っていたというのに、私はその裏で彼を裏切っていた。
脂ぎった男の感触。
五万円の紙幣。
それらの記憶が脳裏をよぎる。
消したい。
なかったことにしたい。
この事実は墓場まで持っていく。
絶対に悟られてはいけない。
私は深呼吸をし、顔を両手で叩いた。
切り替えろ。
今の私は、彼を信じて待っていた健気な女の子だ。
裏切りなんてしていない。
汚れてなんていない。
そう思い込むことで、事実を塗り替える。
返信を打つ。
指の震えはもう止まっていた。
『お疲れ様です! お仕事大変でしたね、体調は大丈夫ですか?』
『私は全然大丈夫です。待ってました!』
『土曜日、空いてます。ぜひ会いたいです』
重くなりすぎないように。
でも、嬉しさは伝わるように。
絵文字とスタンプを選ぶ。
送信ボタンを押す。
既読がつく。
『よかった! じゃあ、いつものカフェで13時に。その後、またゆっくりしましょう』
『ゆっくり』という言葉に、体温が上がる。
また、あの穏やかな時間を過ごせる。
ホテルでの長い夜、背中を撫でられる感触、肯定される安心感。
それが土曜日に待っている。
『楽しみにしてます!』
最後のメッセージを送り、私はスマートフォンを胸に抱いた。
画面の向こうにいる彼の存在を、熱として感じる。
部屋を見渡す。
散乱したコンビニ弁当のゴミ。
脱ぎ捨てた服。
薄暗く淀んだ空気。
掃除をしよう。
明日は美容院に行こう。
新しい服を買おう。
生きるための活力が、足元から湧いてくる。
土曜日まであと二日。
その時間はもう、絶望を耐えるための刑期ではない。
希望へ向かうための準備期間だ。
私は立ち上がり、カーテンを開けた。
窓の外には、街の灯りが星のように広がっていた。




