23.汚れていく側の人間
自宅の浴室。
シャワーヘッドから噴き出す熱湯が、狭い空間に湯気を充満させている。
私は温度調整のハンドルを限界までひねり、火傷しそうなほどの熱さを背中に浴びていた。
皮膚が熱を持って訴えているが、身体の芯にある冷えと不快感は微動だにしない。
ナイロン製のボディタオルにボディーソープをたっぷりと含ませる。
泡立て、それを太腿に押し付ける。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
摩擦音が耳障りに響く。
あの男の脂ぎった掌が這った場所。
湿った唇が押し付けられた場所。
それら全てを削ぎ落とすつもりで、私は皮膚を擦り続けた。
白い泡が赤く染まり始めるわけではないが、私の肌は摩擦で悲鳴を上げ、赤く腫れ上がっていく。
それでも足りない。
皮膚の表面についてもいない汚れが、毛穴から浸透し、肉の下まで汚染してしまったような感覚。
「……消えない」
独り言が浴室のタイルに反響する。
安物の香水の匂い。
煙草の煙の匂い。
そして、欲望を処理した後の男特有の、あの生臭い匂い。
いくら洗っても、記憶に焼き付いた感覚器官が、それらを再生し続ける。
私はボディタオルを床に叩きつけ、爪で自分の腕を掻きむしった。
おじさんが優しく撫でてくれた場所を、別の男が金で買い叩き、土足で踏み荒らしていった。
それを許したのは私だ。
寂しさを埋めるためという安っぽい理由で、自分から扉を開けたのだ。
風呂から上がり、バスタオルで身体を拭く。
洗面台の鏡が湯気で曇っている。
私は掌でそれを拭い、自分の姿を映し出した。
濡れた髪。
充血した目。
そして、擦りすぎて赤くなった首筋や胸元。
そこに、あの男のニヤついた顔が重なって見えた気がして、胃の奥から酸っぱいものがせり上がってきた。
「……オエッ」
洗面器に顔を突っ込み、空嘔吐する。
何も出てこない。
吐き出したいのは胃の内容物ではなく、私という存在そのものの汚らわしさだ。
おじさんは私を「優しい」と言った。
「かすみさんは素敵な人だ」と言ってくれた。
その言葉が、今は鋭い刃物となって私を刺す。
もし彼が、今の私を見たらどう思うだろう。
会えない寂しさに耐えられず、数日も経たないうちに別の男に股を開き、五万円を受け取って帰ってきた女。
軽蔑すら生ぬるい。
失望されるのが一番怖い。
「……最低だ」
鏡の中の自分に向かって吐き捨てる。
私はただの売春女だ。
それ以上でもそれ以下でもない。
一瞬でも「友達」だの「人間らしい扱い」だの夢を見ていた自分が滑稽でならない。
世界のロジックは変わらない。
私は搾取され、消費され、汚れていく側の人間だ。
涙すら出なかった。
重たい自己嫌悪の塊だけが重なる。
リビングへ戻る足取りは、死刑台へ向かう囚人のように重かった。
テーブルの上にあるピルケースが、月明かりを反射して白く光っている。
救済の光。
あるいは、終わりの光。
私は震える手で蓋を開けた。
いつもなら一錠か二錠で済ませる抗不安薬と睡眠導入剤。
けれど今夜は、思考回路が焼き切れるほどの過負荷がかかっている。
このままでは、あの男の感触と自己嫌悪に一晩中責め立てられ、発狂してしまうかもしれない。
指が勝手に動く。
ジャラリ、と乾いた音がして、掌に白い錠剤が山を作る。
三錠、四錠、五錠。
致死量には程遠いが、医師の処方箋を無視した量だ。
「……もう、いいや」
思考を放棄する言葉。
私はコップの水も用意せず、錠剤を一気に口の中に放り込んだ。
唾液だけで無理やり飲み込む。
喉に引っかかるような異物感と、苦味が広がる。
ペットボトルの水をラッパ飲みし、強引に胃へと流し込んだ。
布団に倒れ込む。
シーツの冷たさが、火照った肌に心地よい。
薬の効き目は早かった。
空腹の胃に多量の化学物質が溶け出し、血液に乗って脳へと駆け上がる。
視界がぐにゃりと歪む。
天井の木目が渦を巻き始め、部屋の隅の闇が生き物のように膨れ上がってくる。
手足の感覚が遠のく。
身体が鉛のように重くなり、布団の中に沈んでいくようだ。
思考の回転が鈍くなる。
男の顔も、おじさんの笑顔も、自己嫌悪も、全てが灰色の霧の中に溶けていく。
ああ、楽だ。
何も考えなくていい。
何も感じなくていい。
私はただの肉の塊に戻る。
意識の灯火が、フッと吹き消されるように途絶えた。
夢など見る余地もない。
私は泥のような、深く、重く、何も存在しない無の世界へと落ちていった。




