20.私は何者ですか
夕闇がカーテンの隙間から浸食し、部屋の輪郭を曖昧にする。
私は布団の上に腹ばいになり、スマートフォンの液晶画面を見つめ続けている。
緑色のアイコン。
丸くなった三毛猫の写真。
タップすればトーク画面が開き、私の指先一つで彼に言葉を届けることができる。
「猫の話、聞いてみよう」
昼間、診察室を出た時の高揚感は、帰宅して一人になった途端、泥のような迷いへと変質していた。
文字入力のキーボードが表示される。
『こんばんは』
そこまでは打てる。
問題はその先だ。
指が止まる。
カーソルが点滅を繰り返し、私の躊躇を秒刻みで責め立てる。
私は何者として、彼に話しかければいいのだろう。
四万円、あるいは八万円で買われる商品としての「かすみ」か。
それとも、心療内科で医者に告げたような「友達」としての私か。
もし商品として振る舞うなら、媚びた文面が必要だ。
『来週も会えるの楽しみにしてます』
『おじさんに会いたくて寂しいです』
入力してみる。
画面に並んだ文字は、あまりに白々しく、昨夜の温かな共有を汚すように思えて、すぐにバックスペースキーを連打した。
文字が一つずつ消えていく。
では、友達としてならどうか。
『猫ちゃんかわいいですね、名前なんて言うんですか?』
『今何してますか?』
打ってみる。
今度は、背筋に冷たいものが走る。
馴れ馴れしいのではないか。
勘違いしていると思われないか。
彼はあくまで金を払って私と会っている。
プライベートな時間に、商売女からの無意味な雑談など求めていないかもしれない。
「重い女」
「面倒な女」
「距離感のバグった女」
そんなレッテルを貼られるのが怖い。
彼が優しいのは、それが対面時における「サービス」の一環だからかもしれない。
アインを交換してくれたのも、断るのが面倒だったからかもしれない。
ネガティブな思考が、黒いインクのように脳内に広がる。
私は一度画面を閉じ、ホーム画面に戻る。
深呼吸をする。
またアインを開く。
トーク履歴には、私の送ったお辞儀猫と、彼の送ったサムズアップ猫だけがある。
この静止した均衡が、今の私にとっての最適解なのではないか。
余計なことをして、この細い糸を切ってしまうリスクを冒すべきではない。
『今日はお仕事お休みですか?』
『ご飯食べましたか?』
いくつかのパターンを作っては消し、作っては消しを繰り返す。
一時間近くそうしていただろうか。
スマートフォンのバッテリー残量が数パーセント減っていた。
指先が疲れた。
心も疲れた。
正解がない。
いや、正解は「何もしない」ことなのかもしれない。
彼の方から連絡が来るのを待つ。
それが、商品としての分際をわきまえた、最も安全な振る舞いだ。
私は溜息をつき、書きかけの文章を全て消去した。
真っ白に戻った入力欄。
「……やめよう」
声に出すと、諦めがついた。
無理に動いて傷つくより、動かずに現状維持を選ぶ。
それは私の、長年培ってきた生存戦略だ。
私はスマートフォンを枕元に伏せて置いた。
画面の光が消え、部屋が完全な闇に沈む。
連絡はできなかった。
けれど、あのアインのリストに彼がいる。
いつでも連絡できる手段がある。
今は、その事実をお守りのように抱きしめるだけで十分だと言い聞かせる。
私は布団を頭まで被り、目を閉じた。
瞼の裏に、あの三毛猫のアイコンと、彼の優しい笑顔がぼんやりと浮かんだ。




