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19.いい友達が、できました

家に到着。


玄関のドアを閉め、鍵をかける音が狭い部屋に響く。


私は靴を脱ぎ捨て、這うようにして部屋の奥へ進む。


テーブルの上に置いてあったピルケースを掴み、中から白い錠剤を取り出す。


水も飲まずに嚥下する。


苦い味が喉の奥に広がるが、今の私にはそれが安らぎの味に感じられた。


布団の上に倒れ込む。


天井の木目を見つめながら、薬が血管を巡り、暴走していた神経を鎮めていくのを待つ。


数十分後、鉛のように重かった四肢から少しずつ力が抜け、泥のような倦怠感が薄れていく。


呼吸が深くなる。


心臓の鼓動が一定のリズムを取り戻す。


私はゆっくりと上体を起こし、大きく息を吐いた。


生き返った心地がする。


昨夜のパニック、朝の無気力。


それらが遠い過去の出来事のように思えるほど、薬の効力は絶対的だ。


けれど、今日私の胸に残っている温かさは、薬の作用だけではないことを知っている。


バッグからスマートフォンを取り出す。


画面を点灯させ、新しくインストールされた緑色のアイコン『アイン』をタップする。


友だちリストの一番上に追加された名前。


アイコン画像は、丸くなった三毛猫の写真だ。


『おじさん』と登録するのは失礼な気がして、名前はまだ編集していない。


猫飼ってるのかな。


そんな些細な疑問が、私の指を動かす。


トーク画面を開く。


真っ白な背景。


まだ何の会話もない空間。


私はスタンプショップを開き、無料のスタンプの中から、お辞儀をしている猫のイラストを選んだ。


送信。


画面にポンと表示される。


既読がつくまでの数秒間、心臓が小さく跳ねる。


迷惑だっただろうか。


もう切り捨てられただろうか。


そんな不安がよぎった直後、画面に『既読』の文字が浮かんだ。


そして、すぐに吹き出しが現れる。


送られてきたのは、同じシリーズの猫が、魚をくわえてサムズアップしているスタンプだった。


文字はない。


けれど、そのユーモラスな絵柄に、彼の人柄が滲み出ている気がした。


口元が緩む。


画面越しに、彼が笑っている姿が想像できる。


今までパパ活で使っていた『オオカ』や『Finder』のような、業務的な連絡ツールとは違う。


ここにあるのは、金銭や契約を超えた、日常の延長線上にある繋がりだ。


「……猫、好きなんだ」


私は独り言を呟き、画面の猫を指で撫でた。


数日後、私は駅前の心療内科の待合室にいた。


手持ちの薬が切れかけていたからだ。


名前を呼ばれ、診察室に入る。


いつもの医師が、穏やかな顔で迎えてくれた。


「こんにちは、調子はどうですか?」


私は椅子に座り、バッグを膝の上に置く。


「……悪く、ないです。薬さえあれば、眠れますし」


医師はカルテにペンを走らせながら、私の顔を覗き込んだ。


「顔色が以前より少し良くなった気がしますね。何か、生活に変化がありましたか?」


鋭い指摘に、私は一瞬言葉に詰まる。


変化。


確かにあった。


この一ヶ月、私は『おじさん』という奇妙な人物と出会い、カフェで語り合い、ホテルで一晩を過ごした。


それをどう説明すればいいのか。


パパ活相手です、とは言えない。


けれど、ただの他人と言うには、彼との時間はあまりに濃密すぎた。


「前回、少し外の世界と関わってみてはどうかと提案しましたが……どうでしょう、誰かとお話ししたりしましたか?」


医師の言葉に、私は視線を落とす。


脳裏に、カフェで楽しそうにアニメの話をする彼の顔が浮かぶ。


私のパニックを受け止め、背中を撫でてくれた温かい手の感触が蘇る。


「いい友達や、彼氏ができたり……とか?」


医師が冗談めかして聞く。


彼氏ではない。


金で繋がっている関係だ。


でも。


私の心の中で、何かが小さく否定した。


ただの客ではない。


私を人間として扱ってくれる、優しくて不器用な人。


私は顔を上げ、医師の目を見て、小さな声で答えた。


「……いい友達が、できました」


それが、今の私にとって一番しっくりくる言葉だった。


「そうですか。それは良かった」


医師は心底安心したように目を細め、カルテに何かを書き込んだ。


「いい傾向です。その関係を大切にしてくださいね。薬はいつもの分を出しておきますが、少し様子を見て、減らしていってもいいかもしれません」


「……はい」


診察室を出ると、待合室の空気が以前より少し澄んで見えた。


友達。


その言葉を口にしたことで、彼との関係が、私の中で確かな形を持った気がした。


私はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。


今度、彼には、猫の話を聞いてみよう。


そう思うだけで、足取りが少し軽くなった。

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