18.アイン、交換しても
私はサイドテーブルに置かれた金を見つめ、そこから視線を彼の顔に移した。
身支度を整え、部屋を出る準備はできている。
彼は少し照れくさそうに、1万円を8枚私に差し出した。
約束通りの八万円だ。
私はバッグのストラップを強く握りしめた。
受け取れない。
昨夜はパニックを起こして泣きじゃくり、彼に一晩中介抱させた。
朝も、本来なら奉仕すべき時間に眠りこけていた。
商品としての役割を何一つ果たしていないどころか、客に負担を強いた不良品だ。
喉が渇いたように引きつる。
「……あの、これ」
私は金を押し戻すように、手を少し前に出した。
「受け取れません。昨日は……ご迷惑をおかけしましたし、朝も何もできなくて……」
言葉が詰まる。
自分の無能さを認めるのは、いつだって苦い味がする。
「……二万で、十分です。それ以上は、貰えません」
それが今の私が出せる精一杯の誠意であり、同時に、これ以上自分の価値を落とさないための防衛線でもあった。
もし満額を受け取ってしまえば、私はただの厚かましい詐欺師になってしまう。
彼は目を丸くし、それからふわりと笑った。
私の手を包み込むようにして、金を握らせる。
「かすみさんは、優しいですね」
予想外の言葉に、私は顔を上げた。
彼は一歩踏み出し、私を軽く抱き寄せた。
昨夜の密着度とは違う、別れを惜しむような、あるいは労うような、柔らかなハグ。
「迷惑なんて思っていませんよ。僕は十分癒やされましたし、かすみさんと過ごせて楽しかった」
彼の大きな手が、私の頭をポンポンと撫でる。
「これは、僕が払いたいから払うんです。かすみさんの優しさと、時間への対価です。受け取ってください」
彼の胸元で、私は瞬きを繰り返す。
優しい。
私が?
客に迷惑をかけ、まともなサービスもできなかった私が?
この人は、どこまでお人好しなのだろう。
あるいは、私の歪んだ自己評価とは全く違う基準で、世界を見ているのだろうか。
金の重みが、手のひらにずっしりと伝わる。
それは金銭の重みというより、彼の信頼の重みのように感じられた。
「……ありがとう、ございます」
私は小さく頷き、金をバッグの奥底にしまった。
ホテルの外に出ると、朝の冷たい空気が頬を刺した。
駅へと続く道を、二人で並んで歩く。
靴音がアスファルトに響く。
隣を歩く彼の横顔を見ながら、私の胸の内に黒い雲が湧き上がってきた。
別れの時間が迫っている。
改札を通れば、私たちはまた赤の他人だ。
これまでのやり取りは、『オオカ』のメッセージ機能だけだった。
アプリなど、指先一つで消せる。
ブロックされれば、二度と連絡は取れない。
彼のような「良い客」は、すぐに他の若い子に見つかるだろう。
もっと明るくて、健康で、楽しい子に。
そうしたら、私のような面倒な女は切り捨てられる。
恐怖が足元から這い上がってくる。
この繋がりを失いたくない。
金のためだけではない。
昨夜の温もりを、まだ手放したくないという渇望。
駅の階段が見えてくる。
時間がない。
心臓が早鐘を打つ。
私は意を決して、足を止めた。
「……あの!」
声が裏返る。
彼が立ち止まり、不思議そうに振り返る。
「あ、あの……カカオだと、通知来ないこともあって……その……」
言い訳が口をついて出る。
本当は、ただ繋がりを確かなものにしたいだけなのに。
「……アイン、交換しても、いいですか?」
個人的な連絡先交換。
それは、パパ活における一線を越える行為だ。
業務用の関係から、少しだけ私的な領域に踏み込むリスク。
拒絶されるかもしれない。
「重い女」だと思われるかもしれない。
私は下唇を噛み、彼の反応を待つ。
「ああ、もちろん」
彼は拍子抜けするほどあっさりと頷いた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を操作する。
「僕も聞こうと思ってたんです。アプリだと使いにくくて」
彼はQRコードを表示して、私に差し出した。
社交辞令ではない、自然な動作。
私は震える手で自分のスマホを操作し、カメラを起動する。
読み取り音が鳴り、画面に彼のアイコンが表示される。
『友だち追加』のボタンを押す。
完了。
その二文字を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、安堵のため息が漏れた。
これで、アプリを介さなくても繋がれる。
彼がアプリを退会しても、私のアインには彼が残る。
「じゃあ、また連絡しますね」
彼は改札の前で、私に向かって手を振った。
「来週も、よろしくお願いします」
その言葉が、私の未来を、少なくとも来週までの未来を保証してくれた。
「……はい、よろしくお願いします」
私は深く頭を下げ、彼が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
雑踏の中で、私はスマートフォンを胸に抱きしめる。
画面の中で、彼の名前が小さく光っていた。




