17.この人は、本当に何なのだろう
スマートフォンのアラーム音が枕元で鳴り響き、私は重い瞼を持ち上げる。
白い天井が視界に入り、隣で彼が身じろぎする音がする。
手を伸ばして画面をスワイプし、音を止める。
静寂が戻った部屋で、私は自分の呼吸音を確認する。
乱れていない。
薬を飲み忘れた夜は、決まって泥のような悪夢にうなされ、汗びっしょりで飛び起きるのが常だった。
けれど今朝は、不思議なほど頭が静かだ。
深い眠りの底から、ゆっくりと浮上してきたような感覚。
何年ぶりだろう。
薬の力に頼らず、脅かされることなく朝を迎えたのは。
しかし、身体を起こそうとすると、鉛を詰め込まれたように四肢が重い。
気力が湧かない。
薬切れの離脱症状か、それとも昨夜のパニックの反動か。
指先が微かに震えている。
デジタル時計の表示を見る。
チェックアウトの二時間前。
私の脳内で、即座に計算式が走る。
一泊八万円。
この高額な対価には、夜の相手だけでなく、朝の奉仕も当然含まれている。
常連客をつなぎとめるための重要なサービスタイムだ。
ここで手を抜けば、次はもうないかもしれない。
「もっと愛想が良くて、健康な子がいい」
そう判断されて切り捨てられる恐怖が、重い身体を無理やり動かす燃料となる。
私はシーツを握りしめ、喉の調子を整える。
「……もう朝です。おはようございます」
隣で丸くなっていた彼が、ゆっくりと目を開ける。
「ん……ああ、もう朝ですね。おはようございます。アラーム、早いですね」
彼は欠伸を噛み殺しながら、寝ぼけ眼で私を見て微笑む。
私は身を起こし、乱れた髪を指で梳く。
「あ、あのう……チェックアウトまでには、まだ二時間あります。その……」
言葉を濁しながら、視線を彼の下半身に向ける。
意図は伝わるはずだ。
朝の性処理。
それが私の役割だ。
しかし、彼は枕に頭を預けたまま、首を横に振った。
「……いいんですよ。昨日は疲れたでしょう? もう少し寝ましょう」
彼は布団を私の肩まで掛け直す。
「い、いいんですか?」
私は戸惑う。
掛け布団の下、彼の腰のあたりが不自然に盛り上がっているのが見える。
男の朝の生理現象。
彼だって、本当はしたいはずだ。
七万円も払っているのだから、その権利を行使して当然だ。
それなのに。
「……無理やりさせたくないから。今日はゆっくり寝ましょう」
彼は私の頭をぽんぽんと撫で、目を閉じた。
その手つきに、欲求不満の苛立ちや、恩着せがましさは微塵もない。
「……っ……」
喉の奥が詰まる。
無理やりさせたくない。
私から七万円を搾り取られる立場なのに、彼は私の体調を気遣い、自分の欲望を押し殺している。
馬鹿なほどに優しい。
損な取引だと分かっていて、それでも私を優先する。
この人は、本当に何なのだろう。
私は唇を噛み締め、溢れそうになる何かを堪える。
「……はい、ありがとう……ございます」
小さな声で礼を言い、私は再び枕に頭を沈めた。
彼の体温が布団の中に充満している。
その温もりに包まれながら、私はもう一度、深い眠りへと落ちていった。




