16.この人の優しさに、甘えたい
私は喉を押さえ、浅く速い呼吸を繰り返しながら、視界の端が白く明滅するのを感じた。
酸素が足りないのか、それとも多すぎるのか、感覚が麻痺していて判別がつかない。
ただ、肺が焼けるように熱く、心臓が早鐘を打って肋骨をきしませていることだけが、鮮明な事実としてそこにあった。
薬がない。
その事実が、巨大な鉄球となって脳天を打ち砕く。
今すぐここから逃げ出したいという衝動が足元から突き上げるが、時計の針は残酷にも終電の時間を過ぎていた。
帰れない。
この薄暗いホテルの部屋という密室に、私は自分の内側から溢れ出す狂気と共に閉じ込められている。
理由もなく涙が溢れ出し、頬を伝ってシーツに黒い染みを作っていく。
自己嫌悪という名の毒が全身に回り、指先が冷たく硬直していく。
私は汚れた風俗嬢で、嘘つきで、薬がないとまともに呼吸もできない欠陥品だ。
そんな思考が渦を巻き、私を暗い底なし沼へと引きずり込んでいく。
「ど、どしました?」
頭上から、困惑した声が降ってくる。
彼の顔が歪んで見える。
私は口を開くが、そこから出るのは意味を成さない喘鳴だけだ。
「ご、ごめんなさい、私、薬が……」
言葉が千切れ、空気に溶けていく。
喉が痙攣し、ヒューヒューという音が部屋に響く。
無様だ。
一泊八万円の商品が、こんな醜態を晒している。
死にたい。
そう願った瞬間、視界が温かな闇に覆われた。
彼が私を強く抱きしめていた。
私の背中に回された腕は、震える身体を固定する万力のように強く、しかし決して痛くはなかった。
「ご、ごめん、変なこと聞いてしまって。でももう大丈夫ですよ、ゆっくり呼吸して」
耳元で囁かれる声は、低く、穏やかで、パニックの波に飲まれかけた私の意識を現実に繋ぎ止める錨のようだった。
彼の大きな手が、私の後頭部をゆっくりと撫でている。
一定のリズム。
子供をあやすような、優しい手つき。
その掌から伝わる体温が、凍りついた私の神経を少しずつ解凍していく。
私は無意識のうちに、彼の背中に手を回し、縋りつくようにシャツを握りしめた。
唯一の安全地帯。
この温もりだけが、私を崩壊から守ってくれる防壁だった。
恥も外聞もなく、私はその胸に顔を埋め、赤子のように嗚咽を漏らした。
「ご、ごめんなさい、私……私から離れないでもらえますか?」
震える唇から零れたのは、あまりに幼く、情けない懇願だった。
拒絶されることへの恐怖で身体が強張る。
しかし、彼は間髪入れずに答えた。
「ああ、安心して。ずっと抱きしめてあげるよ」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
数十分が経過しただろうか。
あるいは、数時間だったかもしれない。
彼の胸の中で、私は時間の感覚を失っていた。
ただ、背中を撫でる手の感触と、耳元で聞こえる心臓の音だけが世界の全てだった。
過呼吸の発作は徐々に収まり、荒かった呼吸が彼の呼吸のリズムと同調していく。
熱い体温が、私の内側に巣食っていた黒い霧を蒸発させていくようだ。
思考の輪郭が、少しずつ戻ってくる。
自分が何をしたのか、何を言ったのか、冷静さが戻るにつれて、羞恥心が鎌首をもたげる。
金を払ってくれた相手に、こんな迷惑をかけて。
楽しい時間を台無しにして。
私は身体を離そうとしたが、彼の腕は解かれなかった。
「ごめんなさい、私は……」
言い訳をしようとした。
病気のこと、過去のこと、自分がどれだけ愚かで救いようのない人間かということ。
全てを吐き出して、軽蔑してもらおうとした。
「辛かっただろう……」
彼の口から漏れたのは、非難ではなく、深い共感の言葉だった。
「……え」
私は顔を上げ、彼の瞳を見た。
そこには、私の醜さを暴こうとする好奇心も、面倒な女を見る侮蔑もなかった。
ただ、傷ついた動物を見るような、痛ましいほどの優しさがあった。
私の震え、涙、そして薬という単語から、彼はおおよその事情を察したのかもしれない。
それでも、彼は何も聞かなかった。
「無理やり話さなくてもいいですよ。今日はゆっくり休みましょう」
彼は私の涙を親指で拭い、優しく微笑んだ。
その笑顔は、かつて私が求めてやまなかった、無条件の肯定そのものだった。
彼は再び私を横たえ、背中に手を添えた。
そして、私がさっき教えた通りの手順で、肩から首筋にかけてをゆっくりとマッサージし始めた。
不器用だが、温かい手。
私の強張った筋肉を解し、心まで解そうとする手。
言葉はいらない。
この沈黙と、手のひらの感触だけで十分だった。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
もう、抗わなくていい。
今夜だけは、この人の優しさに甘えてもいい。
私は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……はい」




