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15.薬が、ない

ホテルの重い扉が閉まり、外界の音が遮断される。


薄暗い照明の下、シーツの冷たい感触よりも先に、彼の体温が私を包み込んでいた。


彼は前回と同じく、行為そのものよりも、その前後の時間を慈しむように私を抱きしめている。


腕に込められた力は弱くも強くもなく、ただ私がそこに存在することを確かめるような、一定の圧力を保っていた。


彼の心音が、私の背中を通して伝わってくる。


規則的で、穏やかなリズム。


それは私が失って久しい、平穏という名の音楽だった。


私は彼の腕の中で、小さく身じろぎをする。


「おじさんは、本当に抱きしめるのが好きなんですね」


口をついて出た言葉に、彼は私の髪に顔を埋めたまま答えた。


「ええ。かすみさんがいてくれると、寂しさが減ってしまうから」


寂しさ。


その言葉が、私の空っぽの胸の内で反響する。


私たちが金銭で取引しているのは、肉体ではなく、この孤独を埋めるための時間なのかもしれない。


ふと、試してみたくなった。


この優しさがどこまで本物で、どこまでが対価に含まれるサービスなのかを。


「じゃあ、私を一泊買えばどうですか?」


冗談のつもりだった。


私の設定している一泊の手当は八万円。


相場の値段とは言え、あまり利用されていない


この金額があれば、もっと若くて美しい風俗嬢を呼べるし、大阪の「たびと旧地」ならば、豪遊できるだろう。


私のような、傷だらけで精神を病んだ中古品に払うには、あまりに法外な値段だ。


自分にそれだけの価値があるとは、私自身が一番思っていない。


彼は身体を離し、私の顔を覗き込んだ。


「いいよ、かすみさんが望むなら」


即答だった。


迷いも、計算も、打算の色もない。


ただ、友人の誘いに応じるような軽やかさで、彼は言った。


私は瞬きを繰り返す。


「……え? 本当、ですか?」


「ええ。一泊したほうが、ゆっくりできそうですし」


彼は微笑んでいる。


私は慌てて付け加える。


「……八万ですよ?」


高すぎる。


私には勿体ない金額だ。


彼は困ったように眉を下げた。


「少し高いですね。常連客のセールス、期待してます」


その冗談めいた口調に、拒絶の意志はなかった。


彼は本気だ。


私という存在に、八万円の価値を見出している。


喉の奥が熱くなる。


「ありがとう……ございます」


私は震える声で礼を言い、再び彼の胸に顔を埋めた。


一泊という長い時間は、私たちに奇妙な安らぎをもたらした。


一度の行為を終えた後も、彼はすぐに眠ろうとはしなかった。


シーツに並んで寝転がり、私の肩を抱きながら、彼はまるで熱心な学生のように質問を重ねてきた。


「どんな愛撫が好きですか?」


「抱きしめ方は、これで苦しくないですか?」


「マッサージは、どのくらいの強さが気持ちいい?」


普通の女性相手に聞けば、ムードがないと怒られるようなことばかりだ。


けれど、彼の瞳は真剣そのもので、そこには女性を喜ばせたいという純粋な奉仕の精神だけがあった。


私は恥ずかしさを覚えながらも、一つ一つ丁寧に答えていく。


首筋への口づけ。


背中を撫でる指のリズム。


言葉にするたび、彼の手がその通りに動き、私の身体を学習していく。


「おじさんは、本当に優しいね」


心からの言葉だった。


風俗店で何百人もの男の相手をしてきたけれど、私の快楽を最優先に考え、学ぼうとする客など一人もいなかった。


彼は少し照れくさそうに頭を掻く。


「わからないからこそ、聞いてるんですよ。かすみさんは可愛いから、絶対いい彼氏できただろうし、比較されると自信なくて」


可愛い。


その響きが、古びた傷跡に軟膏を塗られるように染みる。


「それは……いましたけど」


過去形。


遠い記憶の彼方にある、数人の顔。


中学、高校、大学。


かつての私は、表面上は完璧な優等生で、それなりに容姿も整っていたから、向こうから告白されることは多かった。


「おじさんほど配慮してくれる人は、見たことないですよ」


これは嘘ではない。


彼らは皆、私の「外側」を愛し、私の「内側」にある脆さや暗さには無関心だった。


「元彼って、どんな人ですか?」


彼の何気ない問いかけが、記憶の蓋をこじ開けた。


「どんな人って、ただ普通の……」


言葉を濁そうとした瞬間、脳裏に鮮明な映像がフラッシュバックした。


大学のキャンパス。


卒業間近の冬の日。


最後の彼氏が、呆れたように私に言い放った言葉。


『考え方が甘すぎだって! だから、高い点数取れたって無駄だよ』


彼の冷ややかな視線。


『卒業したら世界のロジックが変わるんだ。誰も「真面目な優等生」とか見てないよ。点数よりも、実績よりも、円滑に嘘を吐ける奴が勝つんだ』


『ちょっとは円滑になってみたらどう?』


そうだ。


彼は正しかった。


私は頑なに「正しさ」を信じ、「真面目さ」を武器にしてきた。


先生の言うことを聞き、ルールを守り、誰にも迷惑をかけずに生きていけば、必ず報われると信じていた。


けれど、社会に出て待っていたのは、理不尽な搾取と、正直者が馬鹿を見る現実だった。


要領の良い同期が出世し、仕事を押し付けられた私が壊れる。


善人は搾取され、罵倒され、心を病んで捨てられる。


悪人は称賛され、富を得て、光の中を歩いていく。


狡賢く立ち回れる者が、階段を上っていく。


それがこの世界のロジックだった。


少しでも早く、それを知っておけば。


あの時、彼の冷笑を真に受けて、生き方を変えていれば。


私はこんな薄汚い風俗嬢に転落することはなかったのではないか。


八丁堀のオフィスで壊れることも、西成の路地裏で怯えることもなかったのではないか。


教えてくれた人がいたのに。


警告してくれた人がいたのに。


なぜ聞かなかった?


なぜ、自分だけは特別だと思った?


愚かだ。


私は救いようのない愚物だ。


もう少し器用に立ち回り、適度に手を抜き、嘘をつくことを覚えていれば。


左腕に醜い傷を刻むこともなく、今頃どこかで普通のOLとして笑っていたのだろうか。


「……っ」


後悔という名の泥が、足元から這い上がってくる。


なぜ聞かなかった。


なぜ変われなかった。


もう答えを教えてくれた人がいたのに、私は自分の殻に閉じこもり、耳を塞いだ。


その結果がこれだ。


四万円で自分を売る、惨めな夜だ。


思考が加速する。


視界が暗く歪み、心臓の鼓動が不規則に跳ねる。


どす黒い自己嫌悪が、胃の腑から逆流してくる。


自分が許せない。


愚かな自分が憎い。


死にたい。


消えたい。


「ご、ごめんなさい、私、ちょっと……」


呼吸が荒くなるのを悟られないように、私は彼から身を離し、バッグへと手を伸ばした。


発作の予兆だ。


薬を飲まなければ。


震える手でバッグの口を開け、中身をまさぐる。


財布、化粧ポーチ、ハンカチ。


指先が虚空を掻く。


ない。


ピルケースの硬質な感触がない。


血の気が引いていく。


入れ忘れた。

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