14.私は、リハビリのための道具
カレンダーの日付が変わるのを、ベッドの上で膝を抱えて見ていた。
一週間という時間は、砂時計の砂が落ちるようにゆっくりと、しかし確実に過ぎ去っていく。
スマートフォンの画面を確認する回数が増える。
通知はない。
ブロックされていないか、何度もアプリを開いて確かめる。
彼は本当に来るのだろうか。
あんな風に「また来週」と言って、笑顔で別れた男たちが、二度と連絡を寄越さなかった例を私はいくつも知っている。
彼らはその場の空気を壊さないために、社交辞令という名の麻酔を打つのだ。
私はネットの中にしか友人がいない。
現実世界での繋がりは、金銭を介した希薄な糸だけ。
それでも、あの「変な人」にまた会えたらいいなと、心のどこかで願っている自分がいることに気づく。
孤独という病巣が、私に微かな期待を抱かせる。
当日。
私はクローゼットの前で立ち尽くし、結局、前回とほぼ同じ服装を選んだ。
ベージュのコートに、胸元の開いたニット。
髪型も変えない。
変化を恐れる小動物のように、私は同じ自分を纏って待ち合わせ場所へ向かった。
彼はいた。
雑踏の中で、彼だけが切り取られたように鮮明に見える。
シンプルだが質の良さそうなジャケット。
整えられた髪。
清潔感という言葉が服を着て歩いているようだ。
私を見つけると、彼は屈託のない笑顔で手を振った。
その瞬間、胸の奥で燻っていた不安が、白い煙となって消えていくのを感じた。
カフェのテーブルを挟んで、湯気の立つカップが二つ並んでいる。
周囲の会話のざわめきが、心地よいBGMのように流れる。
彼は今日も、日常の些細な出来事を語る。
近所の猫の話、美味しかったコンビニスイーツの話。
毒にも薬にもならない、けれど温かい言葉の数々。
私は紅茶を啜りながら、彼の横顔を見つめる。
どうしても、聞きたいことがあった。
喉の奥につかえている小骨のような疑問。
私はカップをソーサーに戻し、意を決して口を開いた。
「……あの」
彼が会話を止め、私を見る。
「おじさんは、その……恋人とか、作りたければできる感じに見えますけど」
言葉を選びながら、核心へと近づく。
「なんで、私なんかを買ってくれるんですか?」
直球すぎる問いだったかもしれない。
自分の価値を卑下する言葉が、自然と口をついて出る。
彼は少し驚いたように瞬きをし、それから苦笑した。
「……確かにね。作りたければ、なんとなく作れそうな気がしますよね」
彼は視線を宙に彷徨わせる。
「かすみさんから見れば、僕ってどんな人に見えます?」
逆質問。
私は彼の顔をまじまじと観察する。
目尻の笑い皺もまだ薄く、肌には張りがある。
「……普通の男の人です。おじさんと呼ぶほどでもないし、若く見えます」
お世辞ではない。
客観的な事実だ。
「お世辞ありがとう。でも、30代になったら立派なおじさんですよ」
彼は自嘲気味に肩をすくめる。
変な理屈だ。
世の中には30代でも恋愛を楽しんでいる人間など五万といる。
「30になったからといって、彼女とか作れないことでもないでしょう?」
私は重ねて問う。
彼が私を対等に扱ってくれるからこそ、その不自然さが際立つ。
彼はカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ表情を曇らせた。
「作れないわけではないんですが……」
言葉を濁し、彼はため息をつく。
「僕もいろいろ、婚活アプリとか出会いアプリとか使ってみたんですよ。でも、なぜか話が盛り上がらないんです。人を楽しませる才能がないんでしょうね、僕は」
意外な言葉だった。
私にとっては、彼の話は心地よい。
沈黙を恐れる必要がなく、無理に笑う必要もない。
「え? それは……どうしてですか?」
純粋な疑問だった。
「僕は、オタクですよ」
彼はきっぱりと言った。
「アニメとゲームで生きてきた、生粋のオタクです。仕事もゲーム業界で、周りは男ばかり。女性なんてほとんどいない環境でした」
彼は遠い目をする。
「6年付き合った彼女がいたんですが、振られましてね。それから仕事に打ち込んで、気づいたらもう30歳。女性との付き合い方も、距離感も、すっかり分からなくなってしまった」
淡々とした語り口の中に、滲み出るような寂寥感があった。
青春を何かに捧げた人間特有の、ある種の欠落。
「だから、かすみさんとたくさん話して、経験を積もうかなって思ったんです」
彼は照れくさそうに笑う。
なるほど。
点と点が繋がる。
彼の丁寧すぎるセックスも、不器用な優しさも、カフェでの長い会話も。
私はリハビリのための道具。
あるいは、シミュレーションのためのテスト役。
そう定義されると、妙に納得がいった。
同時に、少しだけ胸が痛む。
「……私って、いいですか? 私、あまり話すの苦手で……」
練習台として役に立っているのだろうか。
口下手で、暗くて、面白い返しもできない私で。
彼は首を横に振った。
「ああ、だからかすみさんにしたんだ」
彼の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「かすみさんは、自然体で言ってくれるから。お世辞じゃなくて、本音で話してくれる気がして、嬉しいんです」
彼の言葉が、じんわりと心に染み込む。
女の心が読めない男。
不器用で、真面目で、過去の失敗を引きずりながらも、前へ進もうとしている男。
金で時間を買い、私という歪な存在を通して、失われた感覚を取り戻そうと足掻いている。
その姿が、なぜかとても人間らしく思えた。
私のように社会から逃げ出し、傷を舐め合っているだけの人間とは違う。
彼は傷つきながらも、光の方を見ている。
まともな恋愛市場から弾かれたと嘆きながら、それでも誰かを喜ばせようと努力している。
カフェの照明が、彼の横顔を柔らかく照らす。
その表情には、計算も打算もない。
ただ、目の前の私という人間に誠実であろうとする意志だけがある。
眩しい。
直視できないほどに。
私は俯き、カップの中の紅茶の水面を見つめる。
自分の顔が映っている。
情けない、どこにでもいる風俗上がりの女の顔だ。
けれど、そんな私でも、彼の役に立てているのなら。
彼の「練習」の相手として、少しでも彼の背中を押せているのなら。
それは悪い取引ではない気がした。
口の中で、言葉が転がる。
「……おじさんは」
顔を上げる。
彼は不思議そうに首を傾げている。
「格好いいです」
素直な感想だった。
彼は目を丸くし、それから耳まで真っ赤にして俯いた。




