12.この男は、何を求めている?
浴室のタイルが水滴で濡れている。
私はバスタブの縁に腰掛け、湯気の向こうにいる彼の姿を目で追った。
彼は緊張しているように見えた。
指先が微かに震えている。
私のニットの裾を持ち上げ、肌から剥がすように脱がせていく手つきは、あまりにも丁寧だった。
通常の客であれば、金で買った時間を惜しむように、あるいは所有権を主張するように、乱暴に衣服を剥ぎ取る。
ボタンが弾け飛ぶこともあれば、下着ごと引き裂かれそうになることもある。
けれど、彼は違う。
まるで、美術館に展示された古い彫像の覆いを取り払う学芸員のように、慎重で、敬虔ですらある。
ブラウスが床に落ちる。
スカートのファスナーが下ろされる。
下着姿になった私を、彼はじっと見つめ、それから恥ずかしそうに視線を逸らした。
私も彼に合わせて服を脱ぐ手伝いをする。
彼の身体は引き締まり、健康的だった。
皮膚に病的な発疹や潰瘍は見当たらない。
清潔だ。
この確認作業は、パパ活における唯一の防衛線だ。
彼もまた、私の身体を確認する。
視線が私の鎖骨から胸、腹部へと滑り落ち、そして左腕で止まる。
太めのシルバーブレスレットを二連につけて隠していた。
それでも、手首の内側から肘にかけて走る白いケロイド状の隆起は、完全に隠しきれるものではない。
彼の目が一度だけ細められた。
視線が下に落ちる。
彼は何も言わなかった。
「どうしたの?」とも、「それは何?」とも聞かない。
ただ黙って、私の手を取り、浴室へと促した。
シャワーの湯が身体を打ちつける音だけが、狭い空間に響いている。
通常であれば、ここはただの洗浄の場だ。
さっさと汗を流し、局部を洗い、ベッドでの本番へと移行するための通過点に過ぎない。
だが、彼は丁寧に湯船に湯を張り、私と並んで浸かることを選んだ。
温かい水が首まで満ちる。
彼はふう、と深く息を吐き、天井を見上げた。
「……気持ちいいですね」
独り言のように呟く。
私は膝を抱え、隣にいる彼の横顔を見る。
長い睫毛。
整った鼻筋。
湯気で少し上気した頬。
彼は本当に、ただ風呂を楽しんでいるだけに見える。
四万円、プラス交通費と食事代。
それだけの金を払って、彼は赤の他人の女と風呂に浸かりに来たのか。
理解できない。
性欲という分かりやすい目的が見えない分、彼という存在の輪郭が掴めずに不安になる。
私は湯の中で指先を動かし、自分の太腿をつねってみた。
痛みがある。
これは現実だ。
お湯の揺らめきが止まった頃、彼が遠慮がちに口を開いた。
「……ごめん、少し、ハグしてもいいですか?」
私は瞬きをする。
「……はい」
拒否する理由はなかった。
私は身体の向きを変え、彼の開いた脚の間へと移動する。
背中を彼の胸に預ける。
彼の腕が、後ろから私の身体に回される。
強く締め付けるわけでもなく、まさぐるわけでもない。
ただ、そこに存在を確認するかのように、ふわりと添えられた腕。
彼の顎が、私の肩に乗せられる。
耳元で、彼の呼吸音が聞こえる。
規則正しい、穏やかなリズム。
湯の温かさと、彼の体温が混ざり合い、私の冷え切った皮膚を外側から溶かしていくようだ。
背中に当たる彼の腹部の下あたりに、硬いものが触れているのが分かった。
生理現象としての勃起。
男の身体は正直だ。
若い健康な男が、裸の女を抱いているのだから、反応するのは当然のことだろう。
だが、彼はその反応を無視していた。
下半身を押し付けてくることもなければ、私の股間に手を伸ばすこともない。
代わりに、彼の指先が私の首筋に触れた。
親指の腹で、凝り固まった筋肉を円を描くように押す。
優しく、慈しむような手つき。
「……凝ってますね」
耳元で囁かれる声には、欲情の色がない。
ただの労わり。
マッサージ師のような、あるいは親しい友人のような。
私は混乱する。
下は欲望の鎌首をもたげているのに、手と心は僧侶のように穏やかだ。
この乖離は何だ。
この男は何を求めているのだ。
ただ抱きしめて、首を揉んで、それで満足なのか。
「……変な人」
私は声に出さずに口を動かした。
彼の腕の中で、私の強張っていた力が、ほんの少しだけ抜けていくのが分かった。




