10.変なおじさん
私はテーブルの向かいに座る男の顔を見る。
彼はメニューを開き、穏やかな表情で私に話しかけている。
待ち合わせ場所に現れたのは、私の予想を裏切る人物だった。
「変なおじさん」というカテゴライズをしていたけれど、目の前にいるのは、二十代後半にも見える、整った顔立ちの男だ。
仕立ての良いジャケットを着て、姿勢もいい。
どう見ても、金で女を買わなければならないような非モテの部類ではない。
何かの趣味だろうか。
それとも、完璧な外見の下に、常人には理解できない歪んだ性癖を隠し持っているのだろうか。
私はコートの前をきつく閉じたまま、警戒心を解かずに椅子に座っている。
コートの下には、胸元の大きく開いたニットを着ている。
商品としての価値を提示するための、安っぽい包装紙のような服だ。
けれど、この洗練されたカフェの空気の中で、それを晒すことが急に恥ずかしくなった。
周囲は楽しそうに談笑するカップルや、PCを広げて仕事をするビジネスマンばかりだ。
パパ活という底辺の取引をしているのは、私たちだけかもしれない。
「飲み物、決まりましたか?」
彼がメニューを私に向ける。
指先まで手入れが行き届いている。
私は一番安いアールグレイの欄に視線を落とす。
経費をかけさせないこと。
それが「良い商品」の条件だと、身体に染み付いた習性が囁く。
「……紅茶で、いいです」
「紅茶だけでいいんですか? ここのクレープ、すごく有名で美味しいんですよ。これとか、どうですか? 季節のフルーツのがおすすめらしいですけど」
彼は写真付きのページを指差して微笑む。
え?
意味がわからない。
私は彼の顔をまじまじと見る。
その目には、値踏みするような下卑た光がない。
まるで、本当に友人をカフェに誘ったかのような、純粋な提案の響きがあった。
断る理由が見つからず、私は頷くしかなかった。
「じゃあ、それを」
「あ、僕も甘いもの好きなんで、一緒に頼んじゃいますね」
彼は店員を呼び、慣れた口調で注文を済ませた。
運ばれてきたクレープからは、バターと焼けた生地の甘い香りが漂っている。
ナイフを入れると、サクッという音がした。
一口食べる。
甘さが口の中に広がり、脳の芯が痺れるような感覚を覚える。
美味しい。
こんな風に、誰かと向かい合って、味を楽しみながら食事をするなんて、いつぶりだろう。
品定めの会話を待っていた。
「胸は何カップ?」「経験人数は?」「ゴムなしはいける?」
そんな尋問に備えて、定型文の回答を脳内に並べていた。
けれど、彼が口にしたのは、あまりに無害な質問ばかりだった。
「週末は何をして過ごすことが多いんですか?」
「嫌いな食べ物はありますか?」
「最近観た映画とか、あります?」
私は戸惑いながらも、一つ一つ答えていく。
「……週末は、家で寝てることが多いです」
「食べ物は、特に嫌いなものはないです」
「映画は、あまり観ません」
素っ気ない私の返答にも、彼は楽しそうに相槌を打ち、自分の話を広げてくれる。
嫌な話題がない。
答えに窮するような、私の暗い過去に触れるような問いかけが一切ない。
数時間が、あっという間に過ぎた。
気がつけば、紅茶のカップは空になり、窓の外の日差しが傾き始めていた。
会計を済ませて店の外に出る。
伝票の額を盗み見た限り、二人分で五千円近くしていたはずだ。
私への顔合わせの手当が五千円。
合計一万円。
私の頭の中で、勝手に計算機が弾かれる。
あと三万円。
たった三万円を追加すれば、彼は私をホテルに連れ込み、好きなように扱えたはずだ。
四万円で買える女を、彼は一万円かけて、ただカフェで話すだけで終わらせた。
コストパフォーマンスが悪すぎる。
この男は何を考えているのか。
「今日はありがとうございました。とても楽しかったです」
彼は駅へ向かう道すがら、立ち止まって私に言った。
その笑顔は、最後まで崩れなかった。
「また来週、お会いできれば嬉しいです」
本気なのだろうか。
社交辞令には聞こえない、誠実な響きがある。
私は混乱した。
このまま別れていいのか。
私は今日、何も提供していない。
身体も触らせていないし、愛想の良い接客もしていない。
ただクレープを食べて、ぼそぼそと話しただけだ。
これで金を貰うことに、奇妙な居心地の悪さを感じた。
それは、私が風俗という極端な等価交換の世界に長く居すぎたせいかもしれない。
対価としての肉体を提供しなければ、詐欺をしているような気分になる。
だから、つい口走ってしまった。
「……これで、いいんですか?」
「え?」
「ホテルとか……行かなくても、いいんですか?」
言ってから、しまったと思った。
自分から安売りするような発言だ。
彼は目を丸くし、それから少し困ったように笑った。
「あっ、ごめんごめん。そうか……そういうつもりで来てくれたんですよね」
彼は頭をかき、申し訳なさそうに言う。
「わかった、じゃあ今度はお茶した後に、ホテルでもいいですか? 今日はちょっと、この後友達とご飯を食べる予定があって」
友達。
その言葉が、彼と私を隔てる壁のように響いた。
彼には、私以外に会う人間がいる。
対等な関係の、光の世界の住人が。
性欲に飢えた男の顔ではない。
まるで、次の約束を取り付ける友人のような気軽さで、彼は私に提案している。
私は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
自分だけが、卑しい思考回路から抜け出せていない。
「い、いいえ……こちらこそ、ありがとうございました」
私は深く頭を下げた。
逃げるように改札へと向かう私の背中に、彼は軽く手を振ってくれた気がしたけれど、振り返ることはできなかった。
「……変な人」
人混みの中で、私はもう一度呟いた。




