狐と鼠の陣取り合戦 1
狐坂喬の朝は遅い。
好きなだけ寝て、好きな時に起きるというのが彼のポリシーである。自然に目覚めるのは午前九時を回ることも多い。
この時点で、彼が社会人失格だと非難する人もいるだろう。しかし、喬はまったく負い目を感じていなかった。
そもそも、現代日本人の睡眠時間は諸外国と比べて短すぎるのだ。彼に言わせれば、睡眠不足が日中のパフォーマンスを低下させるのは自明なのにもかかわらず、睡眠時間を削るよう強いてくる日本社会の方が間違っているのである。
そして、喬のポリシーの二つ目は、食事をけっしておろそかにしないことだった。朝食は多少手間がかかっても、必ず手作りするようにしている。仕事に追われて健康を損なうなど、彼にとっては愚の骨頂もいいところであった。
食事と身支度を済ませあとに何をするかは、完全にその日の気分次第である。本を読んだり、動画を見たり、SNSやゲームに興じることもあるが、特に、長年の趣味である「折り紙のデザイン」に取り組んでいる日は多い。
ただし、「折り紙」といっても、喬が制作しているのは、子供が遊びで折るのとは比べ物にならないほど緻密に折り込まれた複雑な作品であった。こうしたタイプの折り紙はまるで難解な幾何学的パズルのようで、喬はコンピューターを駆使して設計を行っている。
「紙を折る」という操作だけで、二次元の物体から三次元の構造を生み出す――。それは特定のルールの元で、自分の理想とする形を追求する飽くなき試みであり、いくら時間をかけても足りないほどに奥が深い世界だった。
だが、喬は毎日ひきこもってばかりいられるわけではない。目付け役の務めとして、定期的に京都市内の妖狐たちの様子を見て回る必要があるからである。
そのため、ソメイヨシノがほとんど葉桜に変わってしまったある日の午後も、喬はうららかな陽気に誘われるように、ふらりと外へ出かけたのだった。
(いやあ、実にいい気候だ。サイクリング日和だな)
二日ぶりに部屋を出て、マンションの廊下を歩き出した喬は、頬を撫でるそよ風に口元が緩むのを感じた。
京都盆地は冬寒く夏暑いので、年中自転車で市内を巡らないといけない喬にとって、春と秋はありがたい季節である。服装は適当にジャージを着て行けばいいし、着替えや上着が不要なので、荷物がウエストポーチ一つで済むのも楽だ。
(さあて。今日は近所を中心にパトロールするかねえ)
喬は心の中で独り言を呟き、そのまま駐輪場へ向かおうとして、ピタリと足を止めた。
なんだ? さっき部屋を出た時から、妙な違和感が付きまとってきている。まるで誰かに見張られているような――。
喬はその場で周囲を注意深く見回し、あるものを見つけてハッと瞠目した。
それは、廊下の壁に一定間隔で貼り付けられた人型の紙だった。白っぽい背景に馴染む色の紙で作られていたので、すぐに気付くことができなかったのだ。
「人形代!?」
ギョッとした喬は、とっさに踵を返し、全力で走り出す。
人形代は、陰陽師が自分や他人の身代わりに使用する呪具である。そして、この人形代が彼の動きを感知するために準備されていたものだということは想像に難くなかった。
「まさかこの前押しかけてきた新人の仕業か!? どんだけ執念深いんだよ!」
喬は得体の知れない恐怖に襲われながら自分の部屋へ急ぐ。しかし、次の瞬間、どこからともなく湧き出した紫色の霧のようなものに視界を遮られてしまい、彼はたたらを踏んで立ち止まるしかなくなった。
「くそっ。幻術だな!?」
喬は歯噛みする。人に幻覚を見せるのは陰陽師の高等技術の一つだ。どうやら、彼は部屋を出た時から、すでに相手の術中にはまってしまっていたらしい。
「あー。やられた。降参だ。僕の負けだよ」
喬は肩を落とし、力なく呟く。すると、紫色の霧は瞬く間にかき消え、彼の目の前に勝ち誇った笑みを浮かべた紬の姿が現れた。
「やった! ついに捕まえましたよ! 今度こそ、あなたにはちゃんと働いてもらいますからね!」
(まじかよ。なんてやつだ……)
喬は呆れるやらげんなりするやらで、ただ額に手を当てて呻くことしかできなかった。




