44話 綱の上
冷や汗が首筋を伝い、それが落ち切る前に新たな汗粒が額に滲む。胸の中で鐘でも打っているかのように、心臓が鼓動する度、体が震える感覚に囚われる。
ルイの追及を前にして、エミールは大いに動揺しつつも、何とか取り繕って誤魔化せないかと、駆け回る脳に拍車を掛けた。
しかし、茶を濁す言葉を思考の海から掬い上げては、すぐにそれを捨ててしまう。どれもルイを納得させられないだろうと、エミールは瞬時に理解していた。
いや、正確にはそうではない。
これ以上、彼にセリアとのことを隠し立てるのは違うだろう。頭の片隅でじっと己を見つめる冷静な自分が、そう無言で諭していた。
これまで、セリアと秘密裏の連絡を取り合っていた件は、ルイに対し大きく分けて二つの道があった。全て隠し通すか、転生者であることを除いて打ち明けるか。そして隠し切れなくなった今、残る道は一つだけ。
「……分かった。放課後、寮室で話そう」
エミールは腹を括った。
夕刻の鐘が鳴り響く中、学生寮の一室でエミールとルイが向かい合う。
こうして寮室で正対するのは二度目。昨年セリアからルイと共に手紙で呼び出された会談、その直後のセリアとの密談を問い質された以来だ。
眼前にある、黒髪の下の美しい相貌に感情の色は一切無かった。酷く整った顔から全くの表情を引き抜くと、人形じみて不気味に見えるのだと改めて知る。
薄ら冷える能面に、打ち明けると決意した筈のエミールは尻込みしてしまう。その逡巡が、ルイの詰問を招いた。
「で、どういう訳があってセリア様と連絡を取り合ってるの? 何でエドモンさんと僕以外知らない筈の兵舎整備案をセリア様に漏らしたの?」
氷柱を捩じ込むようなそれに、背骨が冷える。それでも意を決したエミールは言葉を捻り出す。
「……まず、去年にセリア様から俺とお前が手紙で呼び出された一件があったろ? あれでセリア嬢と俺の二人っきりにされたことから始まるんだが……」
「それは今と同じようにあの後、寮室で聞いたね。僕とエミールの関係性をセリア様に話したって。じゃあ、あの時に言わなかったことがあったってことだね?」
「その通りです……それでセリア嬢にルイとの関係を話した後──」
自然と声が小さくなるエミールは、セリアからの呼び出しを喰らい、問答を終えたルイを先に席を辞させた後のことを語っていく。
ただし、セリアと何を話したのかを後でルイに説明した時と同じく、転生者として話し合ったことは一切伏せた。情報を取捨選択し、あの時以上に慎重に慎重を重ねて言葉を選ぶ。
「──それで、ルームメイトである俺に、今後はお前の動向を報告するようセリア嬢は仰った訳だ。あの時にも言ったろ、公爵家は闇の魔力の才を持つ御落胤たるお前の動向が気になってるって」
まずセリアと話し合った際に、万一ルイに彼女との通信が露見した場合の言い訳を使う。続けて、ルイが公爵家やセリアに過剰な疑いや敵意を抱かないよう舌を振るった。
「それに彼女は王太子殿下の婚約者だからこそ、陛下の落胤、それも闇の魔力持ちであるお前を放っては置けないとな。ただ誤解はするな、彼女はお前を不穏分子じゃなく保護対象のような見方をしてたんだ」
今のところ、ルイの反応は無い。仮面のような無感情のままだ。未だ疑心が彼を支配しているようだ。
嘘は言わないが真実も言わないように、なおかつ彼の不信を払拭出来るようにエミールは懸命に考えを巡らせた。
何しろ以前にも別件──軍事学研究会に通っていたのを隠していたこと──で、ルイを不安にさせた前科がある。これ以上やらかしては、いよいよルイの信用を損なって、彼が闇堕ちへと近付くことになりかねない。
口内を湿らせるために舌で上下の顎を舐め、残る唾液を飲み込んでから口を開く。
「それで公爵家の隠密、“影”を連絡役として、セリア嬢と互いに近況を報告し合うようになったわけだが……そうは言っても大した情報のやり取りはしてない。こっちからは異常無しの報告、向こうからは見返り代わりに特務パーティの動きばかり伝えられる気の抜ける代物だよ」
これは大仰なものではなく、取るに足らない程度の話なのだと、矮小化を図る。実際、これまではただの世間話に毛が生えたもの──転生者同士にとっては、だが──を手紙で送り合うようなものでしかなかった。
「以上が、前回説明した時に言わなかった……言えなかったことだ。兵舎整備案はこの秘密通信を利用して、セリア嬢に王宮への働きかけを頼んでたんだ。おそらく、彼女は王宮を動かすのに王太子殿下へ相談したんだろう。そして……」
一度言葉を切ると、エミールは目を伏せて頭を下げた。
「すまなかった。別に重大な話ではなかったし、形ばかりでもお前の監視役を引き受けざるを得なかったことを正直に明かしては、無駄に傷付けたり気まずくなると思って隠し通すつもりだったんだ。軍事学研究会の時と違って、こっちは言わない方がルイを守れるってな」
そこまで言い切ったエミールは、改めて謝罪を口にしようとしたが、寮の鐘が夕食の時を告げた。勢いを削がれたエミールの口が止まり、再び気まずい空気が寮室を支配してしまう。
短い沈黙を先に破ったのは、エミールではなく、ルイだった。
「続きは食べてからにしようか」
すっと躊躇いも見せずに立ち上がり、扉に歩み寄る。その迷いの無さにエミールは一瞬付いて行けず、慌てて後を追った。
賑やかな食堂では、机上に人参や大根などの春野菜を煮込んだスープとパン、タンポポの葉と共に炒められたベーコンに、仔羊肉のローストが並んでいる。
エミールとルイは対面する形で着席し、お互い無言で食事に臨んだ。
匙ですくったスープを飲み込み、時折ちぎったパンを口に放り込む。春の地味を味わった後、フォークに持ち替えてタンポポの葉ごとベーコンを齧った。緑葉らしい苦味が舌の上で広がり、塩気のある肉がシャキシャキとした食感の中で踊る。
最後にメインの仔羊肉だが、これはフォークを伸ばすのことがやや憚られた。先の冬で起きた双子の悲劇を思えば。
ちらりと視線を上げてルイの方を見やる。彼もあの羊の双子を想起したのか、薄切りにされた仔羊肉のローストと向き合った際、手の動きが止まった。
しかしそれも一瞬の出来事で、何事も無かったかのように肉へフォークの先を突き刺し、冷酷とも言える澱みない所作で口へ運ぶ。
エミールも倣うように、三又の食器の細い先を薄く重なる仔羊肉にずぶりと埋め、徐に持ち上げた。舌の上へ乗った赤身肉は、ソースと肉汁が口内を撫でて味覚を喜ばせる。あの時の如く。
美味ながら苦い記憶を思い起こさせることに、エミールは複雑な顔をしつつも、料理に罪禍は無いと完食する。また視線を皿から上げれば、ルイも同様だった。
食事を終えた二人は寮室へと帰る。食堂から部屋への短い道中も対面し直した今も互いに無言のままで、その間ずっと重苦しい空気が纏わり付いていた。
この鉛のような雰囲気を静かに、だが落雷のような重みを持って破ったのは、寮室に戻って着席してから放たれたルイの一言。
「事情は分かった」
四脚の丸椅子の上で、綺麗な姿勢のままそう言うと、指で右膝を叩き始める。
「理解はした。けれども納得はできてない」
なおも膝が右手の指に叩かれ続けた。秒針を刻むようにトン、トンと鳴るそれにエミールの表情がこわばる。まるで砲撃でも受けているような気分だった。
やがて砲声が止むと、ルイが立ち上がりこちらに歩み寄る。右隣まで来るなり、がっとエミールの肩を掴んだ。
「納得できてないけれど、とりあえず今は飲み込むよ。でも……」
肩を捕らえたルイの手に力が増し、ぎりりと音を立てる。身動ぎも出来ないエミールのすぐ横に、ルイの頭が幽霊のように降りた。
「もう隠し事はしないでね」
響きの冷たさに固唾を飲む。
次は無い。エミールにはそうとしか聞こえなかった。
夜が深くなってきたこともあり、話はここまでとし、二人は寝床に潜る。緊迫していた空気が霧散したことで、エミールは毛布を被りながらほっと安堵の息を吐いた。
ルイの態度を見るに、落着とは言えないものの、それでも「飲み込む」との言質が取れた上に、彼から明確な拒絶や敵意は表れていない。
状況はやや厳しいが、最悪は避けられた。挽回の余地は十分にある。明日から信用を積み直していこう。そう頭を半ば強引に切り替え、睡魔に身を委ねた。
灯りのない寮室で寝息を立てるエミールの上に、影が差す。
漆黒の長髪が彼を覆う毛布に垂れ、紫の濁った瞳が瞬きもせずエミールを凝視していた。規則的な呼吸を繰り返す彼を、穴でも穿つかのように見つめ続けていたルイは、やがて屈めていた身を起こして窓の方へ視線を見やる。
カーテンを指でほんの少しどけると、毒沼めいた眼でその隙間を覗き、舌を打った。
「逃げられたか……公爵家の影め」
視線の先に広がる林の中、消えつつある僅かな闇の魔力の痕跡を睨み付けながら、ルイは苦々しく呟いた。




