41話 冬羊
右手が温もりと粘つきに包まれる。獣くさい臭いも鼻を突き刺す。エミールの右手は羊の膣穴の中へと突っ込まれていた。
手に伝わる感触も嗅覚への刺激も決して気持ちの良いものではないが、一切気にせず腕を更に奥へ進ませる。
「どこだ……もっと奥か? ……居たっ!」
指先に肉壁とは異なるやや硬いものが触れた。腕を更に奥へ押し込みつつ、触れたそれの形を慎重に探っていく。
「若様、助けを求めたあっしが言うのもあれですが、何でそこまで」
羊の主である牧夫が思わず溢した言葉に、エミールは荒っぽく答えた。
「この牧場はウチの土地、つまりこの羊も我が家の財産だ。お前の損は俺の損! むざむざウチの損害を見過ごせるかってんだ!」
手を動かすうちに、掌が仔羊の頭と思われる形を捉えた。その周りを調べて足がないか探す。
「ただでさえ家に一人増えてんだぞ、羊が一頭死んで収入が減るなんて万に一つも認めてたまるかっ」
「……ごめんね、生活費を増やして……」
「あっいや、一人ぐらいは大丈夫だから。ウチの資産舐めんな」
沈むルイにエミールは慌てて振り返った。変に罪悪感を抱えられては困ると適当に言い繕ってから、再び羊の方へ集中する。
もう一度仔羊の頭の位置を確認し、またその周辺を探索し直した。すると今度は細長い何かに触れる。エミールはそれをしっかり掴んだ。
「足を見つけたっ、引くぞ」
叫びながら両足と左手を踏ん張り、羊の中へ突っ込んでいた右腕を思いきり引く。
しかし、まるで地面に根を張った若木を引き抜こうとしたかのように、強く引き戻される力を感じた。親羊の意識が無いためか、肉の収縮や弛緩がろくに行われず、体が胎子を出そうとしていないらしい。
「クソッ、動かん。おい俺ごと引っ張れ!」
「う、うん」
「私もっ」
ルイがエミールの右腕に飛び付き、牧夫の妻も続いてエミールの肩を両手で上下から挟む。遅れて牧夫が羊の方を押さえた。
「数えて三でやるぞ──いち、にの、さん!」
その場の全員が一斉に動く。一方向へ勢いよく力が掛かり、エミールの右腕が小さく悲鳴を上げる。手の中も粘る感触に滑りそうになったが、何とか胎子の足を握り締め続けた。
その甲斐あって、胎子の位置が変わる。僅かながらも腕が引き戻された事実により、エミールはそのことがはっきり分かった。
「動いた! よーしいいぞ、いち、にの」
さんっ!
またもや胎子をずずっと引き寄せられた感覚が、腕を伝ってくる。ほんの少しずつではあるが、確実に分娩を進ませることが出来ていた。
そうして何度か息を合わせて引き続けると、いよいよエミールの右腕が羊の体内から出て、埋まっている部分は手首のすぐ近くまでとなった。
だが、エミールの握力も腕も限界を迎えている。指や掌底は疲労と痛みをつんざき、二人掛かりで引っ張られ続けた腕と肩も同様である。
それでもエミールは掴んだものを離さない。
「後ちょいだ、引けぇ!」
最後の力を振り絞り、左手も動員して右腕を引く。綱引きの要領で体ごと重心を後ろに傾けた。ぐんっと強い勢いで、体が右腕諸共に肘の方へ引き寄せられる。体勢が崩れ、藁が敷かれた土床の上へ思い切り肘がぶつかった。
が、そんなことなどまるで無視して羊の方を見る。未だ意識のない羊の尻から、小さな蹄が二つ飛び出ていた。
「ルイ!」
「分かった!」
ルイはエミールの意図を即座に察したようで、名前を呼ばれた瞬間に、闇の魔力で形成された触手を影より伸ばす。蛸か蛇のようにそれが仔羊の足に巻き付いた。
「うわあっ」
今初めてルイの魔術を見て怖気付いたのか、牧夫が親羊から飛び退いてしまうが、押さえがなくとも胎子を引き摺り出すのに問題はないようだ。
漆黒の触手がルイの影の中に戻っていく度に、ずるずると仔羊の前足が伸び出る。そして、にゅるりと小さな頭もいよいよ空気に触れた。飛び出たその頭を視界に認めたエミールは、「よし」と声を上げてから仔羊へ駆け寄る。
頭に続いて現れた細い胴体を両手で挟み、押し潰してしまわないよう慎重に力を掛けつつ引いた。黄色っぽい羊膜や羊水に塗れたちっぽけな体は、粘つき滑る。何度も両手の位置を直し、それでもこの世へと引っ張り続けた。
「後少しだぞ。産まれろ、生まれて来い」
唐突にその時間は終わる。仔羊の胴体が半分程まで露出した途端、一気に全身が転がり出る。咄嗟にその小柄な体を受け止めようと手を伸ばすが、即座に間に合わないことを理解した。
といっても低い位置でなおかつ藁の上のため、仔羊が怪我をする可能性は低い。それでも思わず動いてしまったのだが、どうも同じ反応をルイもしてしまったらしい。
黒い触手が小さな体を抱き留める。そのままそっと降ろされ、全員が安堵の息を吐いた。
すぐに牧夫の妻が産まれたばかりの仔羊の体を布で拭いてやる中、意識のなかった親羊にも動きがあった。
「あっ起きた」
牧夫の声に目を向ければ、羊が閉じられていた瞼をはっきり開き、首を持ち上げている。そしてゆっくりと立ち上がり、状況を確認するかのように頭を徐に左右へ振った。
羊の様子にエミールは気を抜いた。
「んだよ、病気じゃなくて妊娠中毒じゃねえか。出産さえ無事終われば母体に問題は無い、こいつはもう大丈夫だ。栄養不足だったところに双子を妊娠したから中毒を起こしたんだろうよ」
羊の妊娠中毒は基本的にケトーシス──代謝異常の一種であり、栄養の過不足分による胎子の必要栄養量と母体からの供給量のギャップで発症することが多い。これは分娩後に快方することがほとんどで、そのため今後の心配はほとんど不要である。
「詳しいねエミール」
「そりゃウチが牧場主だからな、羊の話はよく耳にするし、たまにあるんだこういうこと」
「へえ……って結局、魔術の必要は無かったね、僕の魔術も縄の代わりでしかなかったし」
「まあ、無事に済んで何よりだが……あの双子はどうするかな」
手持ちのハンカチで汚れた手や腕を拭うエミールの言葉に、ルイが素っ頓狂な声を上げる。
「え? ここで育てるんじゃないの?」
「冬生まれの羊は、他の羊から仲間として扱われないもんなんだ。仔羊は普通、冬を越せないからだと言われてるが、実際のところはよく分からん。ただここで飼育は難しいだろうな」
「それじゃあこの子達は……」
二人は親羊から顔を背けられる双子の仔羊を見やった。恐らく、仔羊肉というちょっとした贅沢品として消費されるであろう未来を想像しながら。
ところが、この無言の状態は長く続かず、突拍子もないことをルイが言い出した。
「……この子達を引き取りたい」
「何を──」
「どうにか出来ないかな、成獣になれば群れに戻せるかもしれないでしょ」
ルイの我儘とも言える主張に、エミールは最初、犬猫じゃあるまいし何を言っているのかと呆れそうになった。が、すぐにただの同情でそんなことを言い出したのではないと理解し思い直す。
生まれた時から誰にも仲間として受け入れられない存在。ルイは冬生まれの羊と自分をそう重ね合わせて見てしまうのだろう。彼の境遇を思えば無理もないことと言えた。
そしてエミールもまた、ルイの意を受けてそう捉えてしまった。
「エミール……」
「……はぁ、それを持ち出されたら俺が見捨てるのは筋違いってことになるな。生まれが何であれ見捨てないのが家の、俺の信条だ」
「じゃあっ」
「ああ、引き取ろう。それに上手くいけば羊という資産が二頭増えるわけだし、損はない」
そう言ってほんの少し火照り出した顔をルイから背ける。柄にもないことを言った自覚を振り払うように。
昔ならば多少の同情はしても、仕方のないことと目を逸らしていただろう。ルイと出会ってから、エミールは自分がどんどん変わっているように思えてならない。それが何だかくすぐったかった。
夫婦の感謝の言葉を背に受けながら厩舎の外に出ると、知らず知らずのうちに雨が止み、青々とした空が広がっていた。エミールとルイは空と同じような晴れやかな表情で馬に乗り帰路につく。
二人の懐には小さな命がそれぞれ抱かれていた。
城館への帰路を終えると、エミールの父エドモンが視察から戻ってきたところに出会した。視察先で雨をやり過ごしてから帰ってきたらしい。
二人は仔羊を落とさぬよう気を付けながら下馬し、エドモンへと歩み寄る。
「父上、お戻りでしたか。丁度良い、実は──」
馬を降りたエドモンは二人が仔羊を抱いているのを見て首を傾げていたが、訳を説明すると数度頷いて了承した。
「うんうん、そういうことならば認めよう。おい、この子達を頼む」
エドモンの馬を連れて行こうとしていた馬丁が、「へえ」と返事をしてからエミールとルイに付いてくるよう促す。
先にそれぞれが轡を引いた三頭の馬を厩へ送り届け、仔羊の双子を馬丁に預けた。
一息吐いたエミールは己の身へ視線を落とす。足元は泥が跳ね、袖などは黄色い羊膜や脂などによる汚れがべっとり纏わり付いていた。
「雨と泥と羊の出産に仔羊連れと、諸々のことですっかり汚れたな」
「だね」
そう笑い合いながら二人は外套を脱ぎ、石造りの小さな城館の中へ吸い込まれる。
着替えたエミールと両親、ルイの一堂が机を囲って今日のひと騒動を語り寛いだ後、一日の締め括りたる夕食を迎えた。
そうして今、彼らはてらてら輝く肉料理を前にしている。薄く切り分けられた、脂は少なめだがじっくり煮込まれて柔らかそうな仔羊肉を。
「……」
「これは、どういうことかね?」
何も言えずに仔羊の煮込みを凝視する皆を代表して、エドモンが料理を運んできた使用人を問い質す。使用人の男は朗らかに答えた。
「若様達が引き取った仔羊です。料理人も久しぶりの仔羊に、腕が鳴ると張り切りっておりました」
彼の笑顔にエミールは悟った。使用人も料理人も完全なる善意であの双子をこの煮込み料理に仕立てたのだと。まさか我が家で世話をするとは微塵も思っていなかったのだろう。
食材としてではなく文字通りに世話するつもりだったことを、馬丁を始め家の人間に念押ししていなかったこちら側にも非がある。無闇に責めることはできないとエミールは唇を噛んだ。それはエドモンも理解していたらしい。首をルイへ向けて頭を下げた。
「……申し訳ない、ルイ君──」
「いいんです」
家長として謝罪するエドモンを、ルイがきっぱり制止する。
「いいんです……」
同じ言葉繰り返し、スプーンを手に取った。インゲン豆と玉ねぎ、一口大に切られた蕪と共にある、ローストされた上で煮込まれた肉を見つめながら。その意味を、哀しい決意を、食卓につく皆が悟る。
それを受け止めたエドモンが食前の言葉を厳かに述べる。祈りの言葉を添えて。
「我らが主よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。……そして、我らの罪をお赦しください」
スプーンを握ったエミールは、ソースに浸かる薄切り肉を掬い上げ、口に運ぶ。噛む度に肉汁とソースの旨みが溢れ、心中とは真逆に舌は喜びを脳へ伝えていく。
生命は美味である。そんな残酷な真理を受け止めつつ、自らが軽率に招いた罪を飲み込んだ。それが唯一の贖罪と信じて。
ふと窓を見れば、曇天の下に白いものが静かに降っている。まるで、さめざめと泣くように。




