40話 訪問者
尻と胃にとっての地獄を乗り越えて旅程を終えたエミールとルイは、今やセルジョン家の小さな城館で安堵を貪っている。
ぬかるみや固まった轍などに苦しめられ続けた末に辿り着いた石造りの我が家は、質素で寒々しい内装もその見た目通りの冷たい室内温度も気にならず、天にも昇る心地良さだった。
ふと外へ目を向ければ、しとしとと雨が降り続けている。冷えた外気が壁の目に見えない隙間から浸透し、そのせいで部屋の温度は暖炉の存在にも関わらず低いままだ。
トルスの町やその周辺地域は冬でも雪が少なく、むしろ雨の方が多い。国境の大山脈に程近い地域では流石に雪深くなるが、山脈から離れてしまえば大した積雪は無かった。とはいえ冬の長雨は雪よりも厄介ではあるが。
今日も雨で外出は叶わない。明日に晴れたとしても、泥が乾き切るまでは控えた方が良いだろう。わざわざ靴と服を泥で汚しながら、寂しい景色の中、寒風を浴びる必要などない。
そんなことより、魔力の鍛錬をしている方がずっと有意義だった。父親に穏やかながらもプレッシャーを与えられたこともある。
夏振りの再会を互いに喜び、旅の疲れを癒した翌日、朝食の直後に父エドモンから武術大会の件を持ち出されていた。
「武術大会とやらの結果……まあ、まだルイ君の指導は一年にもならないから、仕方ない。気にするな」
木製の肘掛け椅子に体を預けて紅茶に口を付けたエドモンは、そう切り出した。
武術大会では、軍人家生徒は軒並み成す術もなく沈んだ一方、エミールは対戦相手と何とか打ち合った。しかし敢えなく敗北、結局初戦敗退で終わっている。
その結果をエドモンは仕方のないことだと、はっきり認め受け入れた。しかし、続く言葉が問題だった。
「来年こそ良い成績を見せてくれると期待しよう。何しろ魔術の才覚溢れるルイ君が付いてくれているのだからね」
次は勝て。ルイの指導を受け続ければ当然出来るだろう。エミールの耳にはそう聞こえた。父の眼差しが笑っていないように感じるのも、見間違いとは思えなかった。
無形の圧を受け取ったエミールのみならず、同席した母やルイも同じようなことを思ったらしく、二人は一切言葉を発さず重い沈黙が場を支配する。流石にエドモンもばつが悪くなったのか、一度手を叩いてからわざとらしい明るい声色を出した。
「さて、今日は雨模様になりそうだ。降る前に視察へ向かわないと。二人は中でゆっくりしててくれ」
その場はそう収まったが、エミールにとってせっかくの冬休みも、始まって早々やや憂鬱さが付きまとうことになる。
おまけにこの長雨。外で気晴らしも出来ず、やれることは読書か魔力の鍛錬ぐらいだ。故にエミールは自室で淡々と魔力を練る。
そして当然のように、その傍らでルイが椅子に腰掛けていた。
彼はエミールの鍛錬をじっと見る。時折、エミールの魔力の動きで気になる点を指摘し、適切な助言を授けてはまた黙って見つめることを繰り返した。
夕食の前後や休日に寮室で行っていることを、昼前から自室でしているだけだが、それでも数時間続けていると若干の疲労感を覚えてしまう。
──貴族や騎士家の人間ならこの程度、朝飯前なんだろうな。
勝手だが現実的な想像をして気分が沈む。己を鍛えれば鍛える程、持てる者との差がはっきりするようで、悔しさが滲んだ。
それを察してかそうでないのか、ルイが休憩を口にする。
「一回休もうか。お茶もさっき持ってきてもらったし」
そう言って彼は、金属製のティーポットを片手で持ち上げると、もう一方の手で宙に魔力の火を起こしポットを温め直す。小さな卓に乗った二つのカップに湯気の立つ中身を注ぎ、別の容器から牛乳を加えてから片方のカップをエミールへ差し出した。
「ああ、ありがと」
カップを受け取ったエミールはそれに口を付けながら、ふと思う。
よくもまあ都合良くこの国に茶葉が湧いて出たものだと。
ここリュクス王国では当たり前に存在している“茶”だが、エミールの前世、地球の歴史において本来はアジアの産物であり、かつてヨーロッパにとって高級な舶来品だった。
ところがこの世界では、茶葉は遠国から運ばれる高級品ではなく、身近なものに過ぎない。魔物の領域に近い地域で“チャノキ”が自生しているのだ。胡椒を始めとする香辛料も同様である。更に加えて言えば、陶磁器も魔術のおかげか、マイセン磁器よろしく国産化されていた。
──流石は乙女ゲームの世界、御都合主義極まれりだな。
そう思いつつも、自分自身その恩恵をどっぷり預かっているため、悪い気はしていない。今もまた、カップの中で揺蕩う恵みを一口飲み込んだ。暖かくまろやかな苦味が喉を通り抜ける。
一息ついたところで、体も室温も冷えていたことに初めて気が付く。じわじわと石壁を通り抜けた外気が、ささやかな暖炉から発される熱を押し留めることで部屋が温まるのを妨害し続けていたのだ。
紅茶で水分と温もりを補給したエミールは、改めて暖まるために暖炉の近くへ寄る。同時にルイが立ち上がり、座っていた椅子を差し出した。
資産はあるがその分、中隊や私邸など出費も多いセルジョン家の城館に余分な家具などほとんどなく、来客を想定していないエミールの自室には、椅子も一脚しかない。
「お前が座ってろよ、客人を立たせられるか」
「でも……」
「いいからいいから。軍人家の人間にとって、数時間立ちっぱなし歩きっぱなしは慣れたもんよ、椅子に腰掛けんぐらいなんでもない」
粗野な言葉で断ったエミールは暖炉の斜め前、ルイの立つ反対側へしゃがみ、火に当たる。そのまま互いに口を開かない時間が過ぎた。ただただ、薪が小さく弾ける音が時折聞こえるだけの。
その静寂は雨音さえ突き抜ける大声によって破られた。声は玄関口の方から聞こえる。エミールとルイは互いに顔を見合わせ、立ち上がって部屋を飛び出した。
薄暗い廊下を走り抜け玄関へと向かう。必死さを感じる声は人を呼ぶもののようだ。
「どうした、何があった」
そうエミールは叫びながら目当ての場所へ飛び込むと、解放された両開きの扉の前に使用人とずぶ濡れの男が立っているのが見えた。
雨具としてのマント越しでも分かる大きな体の濡れ鼠が、エミールの姿を捉えた途端、助けを求める。
「ああ! 若様、どうか助けてくだせえ! ウチの羊が産気付いちまって、しかも病気になっちまってるみてぇなんだ」
男はセルジョン家の土地に暮らす牧夫の一人だった。普段は羊を育て、トルスの町にあるセルジョン家の紡績工場へ羊毛を出荷している。故にエミールも彼の顔を知っている。
だが彼の言う言葉に思わず片眉を上げた。
「この時期に羊の出産だと、随分な早生まれじゃないか」
通常羊の妊娠は晩秋から冬に起きやすく、その五ヶ月後に産まれるため、分娩は冬を越してからが一般的である。しかし相手が生き物である以上、完全な繁殖の統制は難しい。
そのため冬に出産する羊もいないわけではないが、何らかの疾患を発症しているとなると話が違ってくる。
「このままじゃ親子共々死ぬかもしれねえ! それで今近場に頼れそうなのが若様と御友人だけなんでさぁ、何か魔術で助けてやれませんか。羊が死んじまったら初夏の出荷で損しちまう、病気持ちなら肉にもならねえし……どうかお願えします!」
男の懇願を前にルイがエミールを見た。そして頷く。エミールはそれを視認するなり、使用人へ怒鳴った。
「馬を用意しろっ、二頭だ!」
雪が舐めてくるような凍える雨の中、防水仕様のマントを羽織ったエミールとルイは土道の上を疾走する。馬に跨った二人は、牧夫が乗ったロバを置き去りにしつつも、彼から聞いていた牧場へと駆け込んだ。
柵を通り抜けると厩舎の前で馬から降り、戸が開放されたままの厩舎の中へ飛び込む。視界に入ったのは、横たわった羊と、羊を覗き込むように座り込んだ一人の女性。こちらを振り返った壮年の女性は牧夫の妻で、不安一色の面持ちに一筋の安堵が差す。
「ああ若様……」
「状況は」
マントを脱ぎ捨てながら一言だけ問うエミールは羊の傍にしゃがんだ。その隣にルイも続く。
「い、意識がほとんど無いみたいです。以前からふらついたり食欲が少なかったりで変だなって思ってたら、さっきばたりと倒れて、それで、それで」
最後の形にならない言葉と共に彼女が指差した先には、羊の尻から飛び出した酷く小さな二つの蹄がある。
倒れたと思ったら出産が始まったということだろう。よく見れば羊の腹が大きく膨らんでいるのが、厚い羊毛の上からでも分かった。
エミールはさっそく羊の胎子を引っ張り出しに掛かる。家畜の病など全く分からないし、そもそも母子共に危険な状態のままにはしておけない。だからまず分娩を最優先と定めることにした。
「ルイ、例の影の触手でこの足を掴んで引き摺り出してくれ」
「え、いいの?」
「構わん、逆子の時とかも縄で引っ張り出すからな。ずるっといけ、ずるっと」
困惑を見せていたルイだったが、言われるがままに自身の影から闇の魔力の触手を出現させ、羊の臀部から飛び出した蹄に絡ませる。「ひいっ」と女性の怯える声がしたが、エミールは手を振って安心するよう伝える。
そして触手がゆっくり胎子の足を引っ張り出した。ぐいっと引く度に蹄と繋がる黄色い両足が露わになり、やがては可愛らしい小さな頭、胴体が出てくる。どれも酷く粘ついて黄色っぽい。黄色の正体は胎子を包んでいた羊膜と羊水で、空気に触れると湯気を立たせた。
「よしよし、とりあえず順調だな。ルイ、そのまま全部引っ張り出しちまえ」
「うん」
漆黒の触手がずるずるとルイの影に潜っていき、合わせて羊の胎子が完全に姿を現した。猫のような大きさで五体満足。特に問題は無さそうで、牧夫の妻が意識の無い親に代わって羊膜の一部を取り除いたり布で体を拭いてやり始めた。
思ったより呆気ない展開に、エミールは肩透かしの気分でため息を一つ吐く。
しかし、親羊の方を見て顔色を変えた。
どたばたという足音が背後から聞こえる。ようやく牧夫が追い付いたようだ。エミールは振り返って怒鳴り付ける。
「ふぅ、ひい、今どうなってやすか──」
「おい! こいつは双子だぞ!」
再び羊の方を見る。腹部がまだ膨らんだままで、尻の穴に破れた胎盤が挟まっていた。その場の全員が「ええっ」と声を上げ、羊の尻を見てまた驚く。狼狽えた様子でルイが訊ねる。
「どど、どうすれば」
「触手で引っ張り出せないか?」
「掴めるところが分からないと難しいよ」
「だよなぁ、頭が先だから変に掴んだら首を絞めちまうかもしれねえし」
彼の答えにエミールはもどかしく唸る。本来なら自然と出てくるのを待ってから手助けすれば良いが、今は当の親羊の意識が無く胎子が体内に留まったまま動く様子がない。
このままでは仔羊は窒息、親も死ぬ可能性が高い。
「ええい、やってやる!」
覚悟を決めたエミールは魔力を集めて水を生成し、それを右手に纏う。一方、左手は羊の尻を覆う毛を掻き分けた。
「エミール何を──」
ルイの呼び掛けに構わず、右腕を羊目掛けて振りかぶる。
そしてずぶりと羊の体内へエミールの右手が突っ込んだ。




