第9話 ホアンキエム湖の朝
その日は、いつもより少し早く目が覚めた。
「今日は、私の好きな場所を案内するね」
朝食の席で、ヒエンさんがそう切り出した。定番の観光地だけでなく、彼女が学生時代からよく通っていた、お気に入りの場所を回ろうという提案だった。
「それは楽しみですね。行きましょう」
「うん。でも、まずはホアンキエム湖から。定番だけど、朝が一番綺麗だからね」
まだ朝日が柔らかく差し込む時間、四人はホアンキエム湖のほとりを歩いた。湖面には真っ白で薄い霧がかかり、その向こうに赤い橋と、小さな祠のある島が幻想的に浮かんで見える。中標津の凍てつく霧とは違う、温かさを孕んだ霧だ。地元の人々が、湖の周りで太極拳のような体操をしたり、バドミントンに興じたりしていた。
「静かですね、朝のここ。池袋や六本木の朝とも全然違う」
「うん。夜はもっとにぎやかになるけど、朝は地元の人の時間。ハノイが深呼吸してる時間ね」
七尾さんは湖畔の古びたベンチに腰掛け、しばらくその光景を黙って眺めていた。
「こういう時間、いいなあ……」
「珍しいですね、七尾さんがそんなにしみじみするなんて」
「しみじみくらいするよ、俺だってさ」
その言葉とは裏腹に、五分もしないうちに、七尾さんは近くの屋台で売っていた謎の香ばしい揚げ菓子に気を取られ、「アユムさん、ちょっと買ってきていい?」といそいそと立ち上がってしまった。しみじみとした時間は、案外あっけなく終わった。
湖を一周したあと、ヒエンさんが案内してくれたのは、観光客がほとんど訪れないという小さな路地の奥にある茶館だった。年季の入った木の椅子とテーブルが並び、地元の常連らしき人々が、静かに新聞を読んだり、将棋に似たゲームの駒を打ったりしている。
「ここ、大学時代、よく来てたんだよね」
「勉強しにですか?」
「ううん、サボりに」
その正直すぎる答えに、あーちゃんが小さく笑った。ヒエンさんの学生時代の姿を垣間見るようで、なんだか少し新鮮な気持ちになる。
濃く煮出された蓮茶を飲みながら、四人はしばらく他愛のない話をした。有名な「エッグコーヒー」も頼んでみた。卵黄とコンデンスミルクを泡立てたクリームが乗ったそれは、カスタードのようで大変美味しかったのだが、七尾さんは「うん、美味しいけど、普通のブラックがいい……」と白目をむいていた。
七尾さんは、茶館の壁に飾られた古い写真――モノクロの昔のハノイの街並みを写したもの――に強い興味を示し、店の主人に身振り手振りで質問を重ねていた。
「昔と今で、ずいぶん街の容積が変わったみたいだね」
「電線の量とか、たぶん昔はもっと少なくて綺麗だったと思う」
私がそう言うと、七尾さんは笑いながら頷いた。
「電線の量で街の歴史を語るの、面白いね。でも、ノイズが増えるのはどこも同じか」
午後は、少し足を伸ばして、ヒエンさんの母校である大学のキャンパスにも立ち寄った。学生時代の思い出話に花を咲かせるヒエンさんを、あーちゃんは興味深そうに、けれどどこか優しい眼差しで眺めていた。
「ヒエンさん、こっちにいたときと、日本にいるときと、なんか雰囲気が違う」
「そうかな。どっちも私だと思うけどね」
「うん、それは、わかる。どっちも本当のヒエンさん」
あーちゃんのその言葉には、単なる感想以上の、何か深い共感めいたものが滲んでいた。日本での慣れない留学生活、そして地元での自分。二つの自分を行き来しながら、自分の含水率を保って生きているヒエンさんの姿に、あーちゃんは自分自身の何かを重ねているのかもしれない。私にはそう感じられた。
夕方近く、ヒエンさんが最後に連れて行ってくれたのは、旧市街の外れにある小さな公園だった。地元の子供たちが裸足でサッカーをしている脇で、老人たちが静かに将棋盤を囲んでいる。観光客の姿は、一人も見当たらない。
「ここが、私のいちばん好きな場所」
ヒエンさんはそう言って、ベンチに腰を下ろした。四人並んで座ると、夕日が公園の大きな木々の間から、長いオレンジ色の光を足元に落としていた。
「なんでここが好きなんですか?」
「特別なことは、何もない場所だから。でも、だからこそ、ハノイに帰ってきたんだなって感じがするの」
その言葉に、七尾さんが小さく頷いた。
「わかる気がするな、それ」
「七尾さんもですか?」
「工房の、なんでもない夜とかさ。特別なことは何も起きてないし、ただ猫のカンナが寝てるだけなんだけど、なんか、ここにいていいんだ、って手のひらが納得する瞬間があるんだよね。その感覚に似てる」
珍しく、七尾さんの声に、いつもの飄々とした調子とは少し違う、静かで深い響きがあった。あーちゃんは、その言葉をじっと聞いていた。
子供たちの歓声、将棋盤を叩く乾いた音、遠くから聞こえるバイクのエンジン音。それらすべてが心地よく混ざり合いながら、公園の空気を満たしていた。特別な観光地ではない、けれど確かにこの街の正しい呼吸が感じられる場所で、四人はしばらく、誰も何も言わずに座っていた。
「明日、いよいよバックロンさんのところですね」
静かな沈黙を破ったのは、私だった。
「うん」
ヒエンさんが頷きながら、少しだけ通訳としての表情を引き締めた。
「専門的な話、たくさん出てくると思うから。私の知ってる言葉を全部使って、頑張って通訳するね」
「よろしくお願いします。頼りにしてます」
七尾さんは、公園の夕暮れを眺めながら、いつもの調子に戻って呟いた。
「バックロンさんかあ。どんな人だろうね」
その声には、いつもの飄々とした調子の中に、確かな職人としての楽しみが静かに滲んでいた。
夕日が完全に沈む前に、四人は公園を後にした。旧市街へと戻る道すがら、明日への期待が、それぞれの胸の中で静かに、けれど熱く膨んでいた。




