第10話 バックロンさんの工房(前編)
その日の朝、四人はいつもより早く宿を出た。バックロンさんの工房は、旧市街の喧騒から少し離れた、静かな住宅街の一角にあるという。
「七尾さん、今日は流石に緊張してます?」
タクシーの窓を少し開け、湿った風を浴びながら私が尋ねると、七尾さんは膝の上を見つめたまま、いつも通りの調子で答えた。
「してないよ。同じ木を削ってる同業者に会うだけだしね」
「でも、初対面ですよ。しかも海外の有名な職人さんです」
「初対面だから、なおさら緊張しないでしょ。どんな音を出す人か、まだ直接聴いてないんだからさ。会えばわかるよ」
その理屈が正しいのかどうか、私にはよくわからなかった。七尾さんの膝の上には、昨日旧市街の古道具屋で買ったばかりの、あの鑿の包みが大事そうに置かれている。
「それ、手土産ですか」
「うーん、まだ決めてない。渡すかどうかは、会ってみてから」
「そのために買ったんじゃないんですか」
「買った時は、そんなつもりなかったんだけどなあ」
その場しのぎとも取れる返事に、私は思わず苦笑した。
工房は、小さな鉄工所と民家に挟まれた、看板の一切ない無骨な建物だった。入り口の厚い木製の扉が開いていて、中からシューッ、シューッ、と、木を美しく削る音が漏れ聞こえてくる。
「バックロンさん、いますか?」
ヒエンさんが中に向かって声をかけると、しばらくして、作業着姿の男性が顔を出した。日に焼けた肌に、濃い無精髭。年齢は七尾さんと同じくらい、四十代の入り口といったところだろうか。右手には、荒削りされたばかりのギターのネックを握ったままだった。
「ああ、日本から来た方たちですね。菅原さんから事前に聞いてますよ」
英語混じりだったが、その表情には人懐っこい、けれど職人特有の鋭い笑みが浮かんでいた。
「七尾です。今日はお時間をいただき、本当にありがとうございます」
「こちらこそ。あなたの寄木細工、菅原さんに写真で見せてもらいました。すごく精緻で、綺麗でしたよ」
「いやあ、そんな……」
七尾さんが照れたように頭を掻く。二人はしばらく、お互いの右手を握ったまま、手のひらのタコを確かめるように見つめ合っていた。
「バックロンさんも、その手、削ってますね」
「毎日ね。あなたと、たぶん同じくらい」
それだけで、なぜか通じ合うものがあったらしい。二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
工房の中に案内されると、私は思わず息を呑んだ。壁一面に立てかけられたマホガニーやアッシュのボディ、天井から幾重にも吊るされた乾燥中の木材、作業台に散らばる無数の道具。中標津の工房とは明らかに違う、熱帯の湿度を含んだ空気だった。
「すごい……」
あーちゃんが小さく呟いた。視線の先は、壁に飾られたギターのヘッド部分の装飾――細かく組まれた木の象嵌細工――に釘付けになっている。
バックロンさんは、七尾さんを作業台の前に案内すると、削りかけのネックを、何も言わずに差し出した。
「これ、触ってみて」
七尾さんは慎重にそれを受け取り、指の腹でそっと木目をなぞった。
「この木、なんの木ですか。メイプルとは密度が違う」
ヒエンさんが通訳しようとしたが、専門的な木材の名称になると、彼女の口が一瞬止まった。
「あ……ごめんなさい、この木の専門の単語、日本語でわからない……」
「大丈夫。単語より、実物のほうが早いから」
バックロンさんはそう言って、身振りで山を指すような手つきをしたり、拳でトントンと繊維の硬さを叩いて見せたりした。七尾さんは、その動きと、手の中の木の重さから、何かを聴き取ろうとしているようだった。
しばらく、木が擦れる音と、二人の呼吸だけが響いていた。
「……なるほど。重さの割に、繊維に強い粘りがある感じだな。アルダーみたいに硬いけど、ガラスみたいに脆くはない。これなら、お前の太い声も、ちゃんと支えられる楽器になるわ」
七尾さんがそう呟くと、バックロンさんが目を見開き、何度も頷いた。
「イエス、イエス! その通り! 手が知ってるね!」
「アユムさん、記録、ちゃんと頑張ってね」
「言われなくても最初から頑張ってます。邪魔しないでください」
二人のやり取りは、それから一時間近く続いた。作業工程、道具の手入れ、乾燥のさせ方の違い。ヒエンさんが訳せる部分は言葉で、訳せない部分は道具そのものを見せ合うことで補われていく。
その間、あーちゃんは工房の奥の装飾コーナーに、そっと近づいていた。ロゼッタと呼ばれる、サウンドホールの周りを飾る繊細な象嵌細工。ベトナムの伝統文様を取り入れた意匠に、食い入るように見入っている。
「あーちゃん、あの蓮の模様、気になる?」
声をかけると、あーちゃんは振り返らずに、けれど強く頷いた。
「うん。すごく。……あんなの、彫ったことない」
いつもの控えめな声とは違う、内側から突き動かされるような熱があった。
昼近く、バックロンさんが「お茶にしよう」と手を止めた。休憩スペースに移動しながら、七尾さんは鑿の包みを、少し照れくさそうに差し出した。
「これ、昨日見つけた鑿なんですけど。研ぎ直せば化けると思ったので、良かったらどうぞ」
「え、いいの? これを私に?」
「はい。同じ職人に使ってもらえたら嬉しいです」
バックロンさんは慎重に包みを開け、刃先を親指でそっとなぞると、感嘆したような声を漏らした。
「これは……素晴らしい鑿だ。魂が入ってる。ありがとう、七尾」
二人の間に、確かな信頼が通い合った瞬間だった。窓からは午後の柔らかい光が差し込み、バックロンさんが淹れたコーヒーの香りが、メイプルの匂いと混ざり合っていく。
「後半戦、まだまだこれからだね」
七尾さんが、いつも通りの調子でコーヒーをすすりながら言った。だがその目には、これまでの旅の中で一番の、職人としての輝きが宿っていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




