↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
七尾工房、ベトナムへ行く【番外編】  作者: 七尾 拓哉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/14

第10話 バックロンさんの工房(前編)

その日の朝、四人はいつもより早く宿を出た。バックロンさんの工房は、旧市街の喧騒から少し離れた、静かな住宅街の一角にあるという。


「七尾さん、今日は流石に緊張してます?」


タクシーの窓を少し開け、湿った風を浴びながら私が尋ねると、七尾さんは膝の上を見つめたまま、いつも通りの調子で答えた。


「してないよ。同じ木を削ってる同業者に会うだけだしね」


「でも、初対面ですよ。しかも海外の有名な職人さんです」


「初対面だから、なおさら緊張しないでしょ。どんな音を出す人か、まだ直接聴いてないんだからさ。会えばわかるよ」


その理屈が正しいのかどうか、私にはよくわからなかった。七尾さんの膝の上には、昨日旧市街の古道具屋で買ったばかりの、あの鑿の包みが大事そうに置かれている。


「それ、手土産ですか」


「うーん、まだ決めてない。渡すかどうかは、会ってみてから」


「そのために買ったんじゃないんですか」


「買った時は、そんなつもりなかったんだけどなあ」


その場しのぎとも取れる返事に、私は思わず苦笑した。


工房は、小さな鉄工所と民家に挟まれた、看板の一切ない無骨な建物だった。入り口の厚い木製の扉が開いていて、中からシューッ、シューッ、と、木を美しく削る音が漏れ聞こえてくる。


「バックロンさん、いますか?」


ヒエンさんが中に向かって声をかけると、しばらくして、作業着姿の男性が顔を出した。日に焼けた肌に、濃い無精髭。年齢は七尾さんと同じくらい、四十代の入り口といったところだろうか。右手には、荒削りされたばかりのギターのネックを握ったままだった。


「ああ、日本から来た方たちですね。菅原さんから事前に聞いてますよ」


英語混じりだったが、その表情には人懐っこい、けれど職人特有の鋭い笑みが浮かんでいた。


「七尾です。今日はお時間をいただき、本当にありがとうございます」


「こちらこそ。あなたの寄木細工、菅原さんに写真で見せてもらいました。すごく精緻で、綺麗でしたよ」


「いやあ、そんな……」


七尾さんが照れたように頭を掻く。二人はしばらく、お互いの右手を握ったまま、手のひらのタコを確かめるように見つめ合っていた。


「バックロンさんも、その手、削ってますね」


「毎日ね。あなたと、たぶん同じくらい」


それだけで、なぜか通じ合うものがあったらしい。二人は顔を見合わせて、小さく笑った。


工房の中に案内されると、私は思わず息を呑んだ。壁一面に立てかけられたマホガニーやアッシュのボディ、天井から幾重にも吊るされた乾燥中の木材、作業台に散らばる無数の道具。中標津の工房とは明らかに違う、熱帯の湿度を含んだ空気だった。


「すごい……」


あーちゃんが小さく呟いた。視線の先は、壁に飾られたギターのヘッド部分の装飾――細かく組まれた木の象嵌細工――に釘付けになっている。


バックロンさんは、七尾さんを作業台の前に案内すると、削りかけのネックを、何も言わずに差し出した。


「これ、触ってみて」


七尾さんは慎重にそれを受け取り、指の腹でそっと木目をなぞった。


「この木、なんの木ですか。メイプルとは密度が違う」


ヒエンさんが通訳しようとしたが、専門的な木材の名称になると、彼女の口が一瞬止まった。


「あ……ごめんなさい、この木の専門の単語、日本語でわからない……」


「大丈夫。単語より、実物のほうが早いから」


バックロンさんはそう言って、身振りで山を指すような手つきをしたり、拳でトントンと繊維の硬さを叩いて見せたりした。七尾さんは、その動きと、手の中の木の重さから、何かを聴き取ろうとしているようだった。


しばらく、木が擦れる音と、二人の呼吸だけが響いていた。


「……なるほど。重さの割に、繊維に強い粘りがある感じだな。アルダーみたいに硬いけど、ガラスみたいに脆くはない。これなら、お前の太い声も、ちゃんと支えられる楽器になるわ」


七尾さんがそう呟くと、バックロンさんが目を見開き、何度も頷いた。


「イエス、イエス! その通り! 手が知ってるね!」


「アユムさん、記録、ちゃんと頑張ってね」


「言われなくても最初から頑張ってます。邪魔しないでください」


二人のやり取りは、それから一時間近く続いた。作業工程、道具の手入れ、乾燥のさせ方の違い。ヒエンさんが訳せる部分は言葉で、訳せない部分は道具そのものを見せ合うことで補われていく。


その間、あーちゃんは工房の奥の装飾コーナーに、そっと近づいていた。ロゼッタと呼ばれる、サウンドホールの周りを飾る繊細な象嵌細工。ベトナムの伝統文様を取り入れた意匠に、食い入るように見入っている。


「あーちゃん、あの蓮の模様、気になる?」


声をかけると、あーちゃんは振り返らずに、けれど強く頷いた。


「うん。すごく。……あんなの、彫ったことない」


いつもの控えめな声とは違う、内側から突き動かされるような熱があった。


昼近く、バックロンさんが「お茶にしよう」と手を止めた。休憩スペースに移動しながら、七尾さんは鑿の包みを、少し照れくさそうに差し出した。


「これ、昨日見つけた鑿なんですけど。研ぎ直せば化けると思ったので、良かったらどうぞ」


「え、いいの? これを私に?」


「はい。同じ職人に使ってもらえたら嬉しいです」


バックロンさんは慎重に包みを開け、刃先を親指でそっとなぞると、感嘆したような声を漏らした。


「これは……素晴らしい鑿だ。魂が入ってる。ありがとう、七尾」


二人の間に、確かな信頼が通い合った瞬間だった。窓からは午後の柔らかい光が差し込み、バックロンさんが淹れたコーヒーの香りが、メイプルの匂いと混ざり合っていく。


「後半戦、まだまだこれからだね」


七尾さんが、いつも通りの調子でコーヒーをすすりながら言った。だがその目には、これまでの旅の中で一番の、職人としての輝きが宿っていた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


もしこのお話が、あなたの心にほんの少しでも「正しい重心」で響いたなら、

下の【ハート(いいね)】や【フォロー】、【⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎】という名の小さなノミを入れて、

この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。