第11話 バックロンさんの工房(後編)
休憩を終えると、バックロンさんは、もう一つ奥にある作業スペースへ四人を案内してくれた。
「ここは、装飾を専門にやってる場所。一番、静かにしなきゃいけない部屋ね」
薄暗い部屋の作業台の一つで、若い女性が黙々と手を動かしていた。サウンドホールの周り――ロゼッタの象嵌細工を、細い刃物で彫り込んでいるところだった。
「彼女はミンさん。うちの、一番大切な装飾担当」
紹介されたミンさんは、作業の手を止めて、控えめに会釈した。あーちゃんは、彼女の手元から目を離せずにいる。
「ヒエンさん、あの模様について、聞いてもらえますか」
あーちゃんが、この旅で初めて自分から強く通訳を頼んだ。ミンさんは少し驚いた様子を見せたあと、彫刻刀を置いて説明を始めた。
「ベトナムの伝統的な蓮の文様を、ロゼッタ用にアレンジしたものだそうです。神聖な花だから、刃先を迷わせちゃいけないって」
「一つの模様を完成させるのに、どれくらいの時間がかかるんですか」
ミンさんは、静かに指を三本立てて微笑んだ。
「三日、だって」
「三日……たった数センチの模様に……」
あーちゃんは何かを考え込むように黙り込んだ。ミンさんはその真剣な眼差しに気づいたのか、彫刻刀の一つをそっと差し出した。
「よかったら、少しだけ、ここであなたも刃を入れてみますか」
あーちゃんは一瞬だけ躊躇したが、頷いた。端材に向かい、細い鋼をゆっくりと滑らせていく。シュー、と、細い糸のような木屑が一本、立ち上がった。
「上手」
短い一言だったが、ミンさんの表情には本物の驚きがあった。
「力の入れ方が私たちとは全然違う、独特の呼吸。でも、それがとてもいい。あなたの手は、木の目を読む力が最初から備わっている」
「そう、なんですか……私の、手が……」
「うん。やり方は違うけど、木と対話する力は同じだよって、あーちゃん」
あーちゃんはしばらく黙り込んで、自分の左手を見つめていた。その沈黙は、これまでの自信なさげな沈黙とは、質が違って見えた。
少し離れた作業台では、七尾さんとバックロンさんが、木材の乾燥方法について話し込んでいた。
「日本の冬、乾燥室から出したら一気に湿度が落ちるでしょ。あれ、割れを止めるの大変じゃない?」
「うん。急激に水分を抜くと繊維が裂けるから、八パーセントから十パーセントを維持するのが鉄則」
「こっちは真逆。湿度が高すぎて、木がいつまでも水を抱え込む。だから風の通し方が命なんだ」
二人の会話は専門的でありながら、どこか古い友人同士のように気安かった。
夕方近く、バックロンさんが工房の壁から、数年間乾燥させたという小さな木片を取り、七尾さんに差し出した。
「うちの乾燥室で眠ってた端材。いい音がする。日本に持ち帰って何か作ってみて」
「ありがとう。……今度はさ、中標津にも遊びに来てよ。カンナっていう三毛猫が待ってるから」
「絶対に行きたい。北海道の、真っ白な寒さ、この目で見てみたい」
最後は強い握手だけで、確かな約束が交わされた。
工房を出る前、あーちゃんはもう一度、ミンさんの作業台の前に立ち止まった。
「……ありがとうございました」
深く頭を下げるあーちゃんに、ミンさんは笑顔で何かを伝えた。
「またいつでも彫りにきてねって。それと――」
ヒエンさんが、あーちゃんの目を見つめながら続けた。
「あなたの作った本物の作品を、いつかハノイまで届けてほしい。ずっと待ってる、って」
あーちゃんは何も答えず、ただ深く頷いた。
「あーちゃん、今日、何か大きなものを掴んだ顔をしてるね」
七尾さんが、隣を歩きながら声をかけた。あーちゃんは少し驚いたように顔を上げ、それから小さく、けれどはっきりと頷いた。
「うん。……掴んだ。何を削ればいいのか、わかった気がする」
旧市街に戻る車の中、七尾さんの手には、バックロンさんから譲り受けたあの木片が、大事そうに握られていた。窓の外を流れるハノイの夕景を眺めながら、四人はそれぞれの胸に、色褪せない何かを持ち帰ろうとしていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




