第8話 値切りは、文化だから
販売会翌日の朝、四人はゆっくりと旧市街を歩いていた。今日と明日は完全な自由時間で、ハノイ観光と、バックロンさんの工房訪問に充てることになっている。まずは午前中、旧市街のマーケットを覗いてみようという話になった。
「アユムさん、値切りって、日本でしたことある?」
歩き出してすぐ、ヒエンさんが尋ねてきた。
「日本だと、家電量販店くらいですかね。普通の買い物じゃ、あんまりしないです」
「じゃあ、ここで練習しよう。こっちだと値切らないと、逆に不誠実っていうか、失礼になることもあるから」
その言葉に、七尾さんが急に目を輝かせた。
「失礼になるんだ。それは知らなかったな。お互いの探り合いがあるわけだ」
「うん。ちゃんと交渉するのが、お互いへの敬意みたいな感じね」
最初に立ち寄ったのは、木彫りの置物や小物を扱う露店だった。あーちゃんが、細かく鱗まで彫られた木製の魚の置物に目を留めた。店主のおばさんが、電卓を差し出して強気な値段を打ち込んでくる。
「ヒエンさん、これ、どうやって交渉するんですか」
「まず、その値段の半分くらいをバシッと提示するの。びっくりされるけど、それでいいから」
ヒエンさんの指導のもと、あーちゃんが恐る恐る電卓に数字を打ち込むと、店主のおばさんは大げさに首を振り、何やら激しいベトナム語でまくし立て始めた。
「なんて言ってるんですか、あれ」
「『それじゃ赤字だ、お嬢ちゃん勘弁してくれ』って」
「本当に赤字なんですかね」
「たぶん、そうは言ってても、まだまだ心の余裕はあると思うよ」
その裏表のなさに、私は思わず笑ってしまった。何度かの電卓の叩き合いの末、最終的には最初の提示額よりだいぶ下がった金額で、あーちゃんは無事に魚の置物を手に入れた。店を出る頃には、店主のおばさんも上機嫌で手を振ってくれていた。
「あれ、怒ってたわけじゃなかったんですね」
「うん、あれも大事なコミュニケーションの一部だからね」
次に立ち寄った布屋では、七尾さんが派手な幾何学柄の布地に目を止めた。
「これ、作業エプロンのポケットとかに縫い付けたら、いいアクセントになりそうだな」
「七尾さん、値切ってみます?」
「うん、ちょっとやってみるわ」
張り切って電卓を受け取った七尾さんだったが、提示された値段に対して、なぜか元の値段より高い数字を大真面目に打ち込んでしまった。
「七尾さん、それ、値切りじゃなくて値上げです。何相手に貢いでるんですか」
「あ、本当だ。桁間違えた」
店主のおじさんが目を丸くしながらも、嬉しそうに大爆笑している。ヒエンさんが慌てて間に入り、正しい交渉に修正してくれたおかげで、なんとか適正価格で布を購入できたが、その一部始終を後ろで見ていたあーちゃんは、珍しく声を出して笑っていた。
「七尾さん、商売、絶対に向いてないと思う」
「失敬だなー。これでも一応、自分の工房を何年もやってるんだから、多少の計算はできるでしょ」
「工房のときは、納期と値段を値切られる側だから、守るだけだもんね」
あーちゃんの鋭すぎる指摘に、七尾さんは「確かに」と、あっさり納得して頭を掻いていた。
昼前には、旧市街の路地にある小さな屋台で、揚げ春巻きと分厚いバインミーを買い込み、近くの公園のベンチで昼食にした。屋台の店主とヒエンさんが親しげに現地語で話す様子から、彼女がこのハノイの街でどれだけ自然体でいられるかが伝わってきた。
「ヒエンさんって、ハノイにいると、なんか日本にいるときと雰囲気違いますね。頼もしいです」
私がそう言うと、ヒエンさんはバインミーを頬張りながら、少し照れたように笑った。
「そう? 素に戻ってるだけだと思うよ」
「敬語も、ちょっと抜けてる気がします」
「あ、それは、あーちゃんにだけね」
あーちゃんが横で、お茶を飲みながらコクリと嬉しそうに頷いた。二人の間にある、中標津のバイト先とは違う空気の柔らかさが、こういう瞬間にふと表れる。それを見ているだけで、なんだか私の心まで温かい気持ちになった。
午後は、旧市街の奥にある小さな工芸品店を回った。漆器、陶器、そして繊細な竹細工。どの店でも、七尾さんは職人の手仕事に強い関心を示し、店主に道具について質問しては、ヒエンさんに通訳してもらっていた。
「この漆器、日本の漆とは、また違う質感だね」
「湿度が全然違うから、乾かし方も違うと思う。ハノイの空気じゃないと、この艶は出ないんじゃないかな」
「だよなあ。今度、素材を取り寄せて詳しく調べてみたいな」
その熱心な視線には、いつものフォーのことばかり考えている飄々とした調子とは少し違う、本物の職人としての真剣さがあった。
夕方近く、最後に立ち寄った小さな古道具屋の隅で、七尾さんは古びた鑿を一本見つけて、しばらく手放さなかった。鋼の刃の状態を確かめ、柄の木目を確認し、何度も無言で頷いている。
「これ、すごくいいな」
「買うんですか? 今度こそ値切ります?」
「いや、これは値切らないよ」
「え、なんでですか。さっきまであんなに練習してたのに」
「いいものにはさ、いいものの値段がちゃんとあるからね。職人の仕事に対して、余計なノミは入れないよ」
その一言には、これまでの冗談半分の調子とは違う、確かな職人の矜持があった。店主のおじさんも、七尾さんのその真剣な目つきを見て、言葉は通じずとも何かを察したように、値切る隙を与えることもなく、丁寧に鑿を新聞紙で包んでくれた。
旧市街の夕暮れは、今日も提灯の灯りとともに、静かに更けていった。四人の手には、それぞれの土産物が増え、心なしか足取りも軽い。
「明日は、いよいよバックロンさんのところですね」
私がそう言うと、七尾さんは鑿の包みを大事そうに脇に抱えながら、深く頷いた。
「うん。楽しみだね。どんな音を切り出しているのか、早く見てみたいわ」
その声には、旅の疲れよりも、明日への純粋な期待の方が、ずっと大きく滲んでいた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




