第6話 二日目は、もっと人が来る
二日目の朝、七尾さんはホテルの朝食で二杯目のフォーをおかわりしていた。
「七尾さん、また食べるんですか」
「うまいんだもん。ここのフォー、今まで食べたのと微妙に出汁の感じが違う気がする」
「昨日と同じですよ」
「そう? まあ、うまいからいいよ」
本番二日目だというのに、緊張の欠片もない食べっぷりに、私はもう驚くのをやめていた。あーちゃんとヒエンさんは、そんな七尾さんを横目に、静かに笑い合っている。
フォーを食べ終えた七尾さんは、「やっぱり朝はブラックコーヒーだな」と言って、近くのコンビニへ出かけていった。ところが数分後、缶コーヒーを手にした七尾さんが信じられないほど苦い顔をして戻ってきた。
「アユムさん……これ、めちゃくちゃ甘い。ブラックって書いてあるのに、練乳みたいなのが底に沈んでる……」
ベトナムの缶コーヒーは、ブラックと表記されていても砂糖やミルクが入っていることが珍しくない。
「じゃあ、ホテルの前のカフェで頼んでみますよ」と、私はスマートフォンを取り出し、翻訳アプリに「ブラックコーヒー」と打ち込んで店員に見せた。
「オッケー」と笑顔で出されたのは、小さなグラスの底に、泥のように黒くドロリとした液体がほんの少しだけ入ったものだった。七尾さんが一口すするなり、「うおっ、濃い! エスプレッソの原液みたいだ……」と目を白黒させた。それは伝統的なベトナムのロブスタ種のコーヒーで、本来は練乳と混ぜて飲むための猛烈に濃いものだった。
「普通のブラックコーヒーが飲みたい……日本の缶コーヒーが恋しいわ……」と、七尾さんはハノイの街角で切なそうにこぼしていた。
会場に着くと、昨日の評判を聞きつけたのか、開場前からニンジャ・ツールのブースの前に、すでに人だかりができていた。菅原さんが少し興奮した様子で駆け寄ってくる。
「七尾さん、これ見てください。もう並んでますよ!」
「あ、本当だ。多いね」
七尾さんは、まるで隣のブースの話でも聞いているような、完全に他人事の反応だった。
「緊張しないんですか、これ」
「え、なんでさ? 昨日と同じことを、いつも通りやるだけでしょ」
菅原さんが一瞬言葉に詰まり、それから諦めたように笑った。
その飄々とした受け答えに、菅原さんまでもが少し脱力していた。私だけではなかったのだと、私は少しだけ安心する。
開場すると、二日目の会場はさらに活気をもたらしていた。昨日実演を見た人が、家族や友人を連れて再訪してくるケースも多く、七尾さんのブースは終始賑わっていた。
流暢な英語で話しかけてきたのは、若い男性の職人だった。地元でギター工房を営んでいるという彼は、寄木細工の技法に強い関心を示し、七尾さんに次々と質問を重ねた。ヒエンさんが忙しく通訳をこなす中、二人のやり取りは専門的な内容にどんどん踏み込んでいく。
「木の含水率、どうやって管理してるんですか。ハノイは湿度が高くて苦労する」
「中標津は逆に乾燥するからね。基本は湿度計とにらめっこだけど、最後は木を触った手のひらの感触かな。長年やってると、年輪の詰まり方でなんとなく吸い方がわかるようになるんだよ」
その答えに、男性は感心したように何度も頷いていた。会話の最後に、彼は自分の名刺を差し出した。
「もしよかったら、僕の知り合いの工房も紹介したいです。バックロンさんという、この辺りでは有名なギター職人なんですけど」
その名前に、七尾さんの手が一瞬止まった。
「バックロンさん? 俺、その人の工房、訪ねる予定なんだよ」
「本当ですか! じゃあ、きっと話が合うと思います。彼は本物のルシアー(弦楽器製作者)ですから」
思わぬところで名前が繋がったことに、私とヒエンさんは顔を見合わせた。七尾さんだけは「へえ、世間は狭いねえ」と、いつも通りのんびりした反応だった。
午後になると、あーちゃんのワークショップブースにも、常連のような顔ぶれが増えてきた。昨日教わった参加者が、家族を連れて再訪し、「これ、昨日作ったんです」とキーホルダーを見せてくる場面もあった。
「あーちゃんの教え方、感覚が覚えやすかったって言ってますよ」
ヒエンさんが通訳すると、あーちゃんは照れながらも、「カムオン(ありがとう)」と、しっかりとお礼を言葉にしていた。昨日よりも、少しだけ声が大きくなっている気がした。
夕方近く、昨日声をかけてきた美術学校の女性が、友人を数人連れて再びブースにやってきた。
「この人の作品を、みんなに見せたくて」
友人たちは、あーちゃんが日本から持ってきていた木彫りの作品の写真を、代わる代わる覗き込んでいた。フクロウの彫刻を見た一人が、何かをヒエンさんに熱心に尋ねている。
「この表現方法、どこで学んだのか、って聞いてます」
「……独学、です。美大では、木彫りは専門じゃなかったから」
あーちゃんの答えを聞いた友人たちは、驚いたように顔を見合わせた。ヒエンさんがその賞賛の反応を伝えると、あーちゃんは少し戸惑ったような、それでいて嬉しそうな表情を浮かべた。
「独学であれだけの陰影が出せるのはすごい、って。本気で言ってるよ、あーちゃん」
その言葉に、あーちゃんはしばらく何も言わなかった。ただ、閉場のアナウンスが流れるまで、その横顔には、これまで中標津の工房では見たことのない、静かな熱のようなものが灯り続けていた。
閉場後、片付けをしながら、七尾さんが大きな伸びをした。
「今日も疲れたなあ。美味いフォー食べて寝よ」
「今日は昨日より人が多かったですよね。大成功じゃないですか」
「そう? まあ、多かったのかな」
「本当に緊張してませんね、七尾さん」
「してないよ。それより、あーちゃんの方が今日、なんかいい顔してたね」
その一言に、私は少し驚いた。飄々としているようでいて、七尾さんはちゃんと周りを見ている。あーちゃんの変化に、私よりも先に気づいていたのかもしれない。
「あーちゃん、今日、本気で褒められてました。木彫りのこと」
「知ってるよ。削りながら見てたから」
七尾さんはそう言うと、道具を片付ける手を止めずに、いつも通りの調子で続けた。
「ああいうのはね、本人が一番わかってるもんだよ。周りが何を言うかより、自分がその言葉をどう受け取るか、だからさ」
その言葉には、普段ののんびりした口調の奥に、確かな職人としての重みがあった。
夜の宿への帰り道、明日のバックロンさんの工房訪問について、四人の話は自然と弾んだ。今日出会った職人の紹介で、思いがけず話が繋がったことに、七尾さんも少しだけ楽しみにしている様子だった。
「アユムさん、明日は取材、頑張ってね」
「記録係、ですけどね」
「同じことだよ」
旧市街の夜風は、今日も湿って、温かかった。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




