第5話 鉋の音
私は時差ボケにも慣れた朝、六時にアラームを止めて起きた。
隣のベッドでは、七尾さんがまだ盛大に寝息を立てている。七尾さんを叩き起こすのは、いつだって一苦労だ。だったら先にこっちの支度を終わらせてしまおうと、まずは自分が先にシャワーを浴びることにした。
ところが、お湯のコックをいくら回しても冷水しか出てこない。ハノイは暖かいとはいえ、真冬の中標津から来た体に朝一番の水浴びは凍えるかと思った。
ガタガタ震えながらバスルームを出ると、廊下側のドアがコンコンと叩かれた。隣の部屋のヒエンさんが、「おはようございます。バインミー食べに行きますよー」と迎えにきてくれたのだ。
「ヒエンさん、あの、お湯が出なくてさ。さっき根性で水浴びしたんだけど……」と私が泣きつくと、ヒエンさんは「えっ、本当ですか?」と部屋に入ってきた。そして壁にある小さな「HOT WATER」と書かれた赤いスイッチをカチッと押した。
「これ、電気湯沸かし器のスイッチです。これ点けないとお湯出ないんですよ」
……先に言ってほしかった。ベトナムのホテルの洗礼をこんな形で受けるとは。
髪を乾かし、なんとか身支度を整えた私は、隣のベッドで丸まっている七尾さんを揺さぶった。工房にいる時は構わないが、さすがに多くの人に見られる場面でいつも寝癖だらけの七尾さんではまずい。
「七尾さん、朝ですよ。起きてください」
返事がない。もう少し強く肩を揺する。
「七尾さーん。今日から本番ですよ」
「……ん……あと五分……」
「もう三十分経ってます。起きてください。私、もうシャワーも浴び終わってるんですよ」
「……アユムさん、早いね……」
「七尾さんが遅いんです。ほら、お湯出ますから、早く浴びてきてください」
「……シャワーだもん。お湯は出るでしょ」
「私は水浴びでした。スイッチがあることを知らなかったので」
その一言に、七尾さんはようやく薄目を開けて、少し申し訳なさそうな顔をした。
「……それは、災難だったね」
「早く起きてください」
モゾモゾと起き上がった七尾さんをシャワー室へ押し込み、しばらくして出てきたところで、あーちゃんとヒエンさんと合流し、屋台のバインミーを食べに行った。
「これ、何が入ってるのかよくわかんないけど、フランスパンがサクサクでめちゃくちゃ美味いね」と、七尾さんは朝から追加でもう一つ注文していた。完全に胃袋を掴まれている。
足早に朝食を済ませ、ヒエンさんが手配してくれたタクシーで会場に向かった。到着したのは、開場一時間前。ブースの前に立った七尾さんは、大きくあくびを一つした。
「七尾さん、緊張感持ってください」
「眠くてさあ」
「今日から本番ですよ」
「わかってるよ。作業台の準備は終わってるし、あとはいつも通りだからさ」
作業台の上には、鉋、ノミ、砥石、工程、そして寄木細工の見本が寸分の狂いもなく整然と並べられている。準備そのものは完璧なのに、本人の様子はあまりに平常運転すぎて、こちらの方が緊張で胃が痛くなりそうだった。
だが、七尾さんが実演用のメインの鉋を手に取り、台(木製の本体)の裏側を親指でそっとなぞった瞬間、その表情がピキッと凍りついた。いつもののんびりした空気が一瞬で消え去り、職人の冷徹な目が鉋の刃先を睨みつける。
「……あ。狂ってるな」
「え? 何がですか?」
私が尋ねると、七尾さんは鉋の刃口(刃が出る隙間)を光に透かしながら、苦り切った声を絞り出した。
「鉋の台が、湿度を吸って膨張したのかな?中央が膨らんで、刃が均一に出ない。これじゃあ木を平らに削るどころか、傷をつけるだけだね」
日本の、それも乾燥した冬の中標津に合わせてミリ単位以下で完璧に調整されていた高級な樫の木の台が、ハノイの八〇パーセントを超える猛烈な湿度に触れたことで、一晩のうちに水分を吸って文字通り「生きて」動いてしまったのだ。
開場まであと、わずか四十分。
「スクレーパー持ってきたっけか?あ、あるね。さて、直すか」
「えっ!? 時間大丈夫ですか?」
「たぶん大丈夫」と呟くと、七尾さんは自分のリュックをひっくり返し、古い鑿を引っ張り出した。
「七尾さん、そんな錆びたノミでどうするんですか?」
「このノミは錆びてるけど、台削り直すにはちょうどいいんだよ」
七尾さんはそう言うと、作業台に鉋の台を固定し、ノミを握り直した。
七尾さんのノミの先が、鉋の台の裏側、湿気で膨らんだ目に見えないほどの歪みを、躊躇なく、けれど極めて繊細に削ぎ落としていく。シュッ、シュッ、と硬い樫の木が火花のような細かい粉となって散った。
何度も自分の手のひらで台の平滑さを確かめ、指先の感覚だけでコンマ数ミリの凹凸を読み取っていく。その横顔には、プレッシャーを楽しむような、狂気的なまでの集中力があった。
スクレーパーに持ち替えて、軽くなでるような動作をしている。
「こんなもんかなぁ」
シャッ、シャッ、シャッ!という鋭い音がブースに響き渡る。
開場十五分前。七尾さんは額の汗を拭いもせず、平らになった下端に刃を叩き込み、再び光に透かした。その瞬間、彼の口元に、いつもの不敵で飄々とした笑みが戻った。
「……いい感じだね、ベトナムモードだわ。アユムさん、記録係、頼むよ。バシバシ写真撮ってね」
「……間に合わないかと思いました…任せてください」
「あーちゃんとヒエンさんは、キーホルダーのワークショップをお願いね」
「うん、まかせて」
開場のアナウンスが流れると同時に、会場全体が地鳴りのようなざわめきに包まれた。人の波が、それぞれのブースに吸い込まれていく。ニンジャ・ツールのブースにも、すぐに人だかりができ始めた。
最初に足を止めたのは、地元の初老の男性だった。作業台の上の寄木細工の見本――幾何学模様に組まれた小さな木箱――を、じっと見つめている。
「これ、どうやって組んでるんですか」
ヒエンさんが通訳すると、七尾さんは見本を手に取り、木の断面を指差しながら説明を始めた。さっきまでの修羅場が嘘だったかのように、いつもの工房での様子と何一つ変わらない、のんびりとした調子で話している。
「色の違う木を、薄く切って、組み合わせてるんです。この模様は、木そのものが持ってる天然の色で作ってて、塗料は一切使ってません」
その言葉が伝わると、男性は驚いたように見本を裏返し、断面をまじまじと確認した。周りにいた数人が、その様子を見てさらに集まってくる。
七尾さんは、さっきハノイの湿度に合わせて自分で削り直したばかりのあの鉋を手に取り、実際に薄い木片を削って見せた。
シューッ――。
という、ハノイの湿った空気を鮮やかに切り裂くような、完璧に調律された美しい音が響く。
さっきまで狂っていたはずの刃先からは、向こう側が透けて見えるほど均一で薄い木屑が、湯葉のようにくるくると美しく巻き上がりながら床に落ちていった。
その一連の芸術的な動作と、完全な職人技に、周囲から割れんばかりの歓声と小さなどよめきが起こった。言葉が通じなくても、道具が木を削る音、削られた木の香り、変化、そして均一に仕上がっていく木片そのものが、何よりの正確なロジックとして、現地の専門家たちの心に突き刺さっていた。
午前中の実演が一段落すると、隣のワークショップブースでは、あーちゃんとヒエンさんが忙しく動き回っていた。子供から大人まで、次々と訪れる参加者に、木片の切り方、鉋のかけ方、やすりの使い方を、身振りとヒエンさんの丁寧な通訳を交えて教えている。
「あーちゃん、教えるの上手ですね」
「よくやってるね」
「手取り足取りっていうか。もともと口数少ないから、そんなに通訳することもないのかもしれない」
あーちゃんは少し照れたように俯いたが、その表情には確かな充実感があった。参加者が自分で仕上げたキーホルダーを嬉しそうに掲げる姿を見るたびに、あーちゃんの口元に、雪解けのような小さな笑みが浮かんでいる。
昼過ぎ、少し人の波が落ち着いたタイミングで、若い女性が一人、ブースに近づいてきた。地元の美術学校で木工を学んでいるという彼女は、あーちゃんが手直ししたキーホルダーの角の仕上げに目を留めた。
「これ、あなたがやったの?」
「はい」
ヒエンさんの通訳を介して、二人は木彫りの道具や技法について、しばらく話し込んでいた。あーちゃんが自分の作品の写真をスマホで見せると、女性は目を輝かせて何度も頷いていた。
「彼女、あーちゃんの熊の彫刻、すごく褒めてました。表情の付け方が独特で、日本の民芸とも、西洋の彫刻とも違う雰囲気があるって」
ヒエンさんがそう伝えると、あーちゃんは驚いたように大きな目を瞬かせた。
「そんな、ちゃんと私の表現を見たことある人、中標津でもあんまりいないから……」
「見る人には、どこにいたってちゃんと伝わるってことだよ、あーちゃん」
私がそう言うと、あーちゃんは何かを噛みしめるように、小さく頷いた。この日、あーちゃんの中に落ちたその小さな一言が、後々どんな形を取ることになるのか、このときの私はまだ知らなかった。
夕方、閉場のアナウンスが流れると、七尾さんはようやく、といった様子で大きな伸びをした。作業台の上には、削り屑と、来場者に配った名刺代わりの木片が散らばっている。
「疲れたー。でも腹減ったなあ」
「感想、それだけですか」
「うまくいったんじゃない? 知らんけど」
その投げやりとも取れる言い方に、私は思わず苦笑した。だが、片付けをする七尾さんの手つきには、決して雑ではない、いつも通りの丁寧さがあった。緊張していないのではない。緊張という感情自体が、そもそもこの人の作業工程の中に入り込む隙間がないのかもしれない。
片付けをしていると、菅原さんが両手いっぱいの資料を抱えてやってきた。
「七尾さん! 初日から大盛況でしたね。SNSでもう写真、たくさん上がってますよ」
「え、もう?」
「はい。反応、見てみますか」
スマホの画面には、実演中の七尾さんを撮った写真が、いくつも流れてきていた。コメント欄には、読めない言語も混じっていたが、それでも伝わってくる熱量があった。
「へえ、すごいねえ」
七尾さんは、まるで他人の写真でも見るような気楽さで、画面をスクロールしていた。この人は、いったいどこまで動じないのだろう。私はもう感心を通り越して、少し呆れてきていた。
その夜、宿への帰り道、あーちゃんが珍しく自分から口を開いた。
「わたしも、いつか――」
「いつか?」
「うううん、まだ、なんでもない」
言葉を濁したあーちゃんの横顔に、何か新しい光のようなものが灯っているのを、私は確かに見た気がした。その隣を、七尾さんが「腹減った、バインミーとフォー食べに行こう」と、あくまでいつも通りのペースで歩いていた。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




