第4話 設営と前夜
翌朝、七尾さんは全く起きてこなかった。元々朝が壊滅的に弱い人なのだが、旅の疲れもあってか、隣のベッドでどれだけ声をかけても返事がない。最後は布団ごと引っ剥がしてようやく叩き起こした。同じ部屋だと、こういう時に容赦なくやれるのだけが救いだった。
「……あと五分……中標津はまだ夜のはず……」とうわ言を繰り返す七尾さんをなんとか出発の準備を整えさせる。本当に朝だけは手がかかる。
ホテルの一階に降りると、ヒエンさんが手際よくスマートフォンを操作していた。ベトナムでは定番の配車アプリ「Grab」を使って、会場に向かうタクシーをすでに手配してくれたらしい。
「Grab、本当に便利ですね」と私が感心していると、三分もしないうちに目の前に綺麗な車が止まった。ヒエンさんのおかげで、ハノイの移動は本当にストレスがない。
タクシーの中で、七尾さんはずっと窓の外を眺めながら、屋台の匂いを嗅ぎ分けるような顔をしていた。
「七尾さん、明日から本番ですけど、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫でしょ。あ、あの匂い、なんか美味そうなもん揚げてるな。アユムさん、今日の夜はあっちの屋台に行ってみない?」
「聞いてます? 明日、大勢の前で実演をやるんですよ」
「聞いてるよ。大丈夫でしょ、たぶん」
あまりに軽い返答に、私の方が拍子抜けしてしまった。海外での実演なんて初めてのはずなのに、七尾さんの様子には緊張らしい緊張が一切見当たらない。むしろ、車窓に流れるベトナム語の看板を熱心に読もうとして首をひねっている姿の方が、よほど本気に見えた。
「あーちゃんは緊張してます?」
「うん、ちょっとだけ」
「ほら、あーちゃんの方がまだドキドキしてますよ」
「そう? 俺、道具さえあれば、中標津の工房でやってもハノイでやっても同じだからなあ」
その言葉に嘘はないのだろう。ただ、その飄々とした態度が、逆にこちらを妙にそわそわさせた。本番前日にここまで平常運転でいられる人を、私は今まで見たことがなかった。
会場は市の中心部に近い大きな展示ホールで、すでに各ブースの設営が始まっていた。ニンジャ・ツールのブースは会場の一角、ちょうど中央通路に面した一番目立つ場所に用意されていた。
「七尾さん!」
声をかけてきたのは菅原さんだった。少し疲れを見せながらも笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「菅原さん、お世話になります」
「いえいえ、こちらこそ。会場、こんな感じなんですが、どうですか?」
案内されたブースは、想像していたよりもずっと広かった。頑丈な木製の作業台が二台、道具のディスプレイ棚、端材の見本、そして日本から送った寄木細工の見本を並べるためのガラスケースまで綺麗に用意されている。大きなモニターとカメラが設置されていて、これで手元の繊細な作業をクローズアップして撮影するのだろう。
「あの、これ全部、俺のために用意してくれたんですか」
「もちろんです! 今回のメイン企画ですからね」
「へえ、豪華ですねえ」
七尾さんは、まるで他人事のように感心した声を出した。プレッシャーを感じている様子は微塵もない。
「七尾さん、これを見て、少しはビビったりしないんですか」
「なんで? うちの作業場の台よりもいい作業台だなあ、くらいしか思わないけど」
設営作業が始まると、七尾さんはリュックから出してきた鉋や鋸を作業台に並べ、寄木細工の端材を丁寧に整理していく。その手つきは確かに真剣そのものだったが、口から出てくる言葉は終始のんびりしていた。
「やっぱ、木の匂いってどこでも同じだね。ハノイの空気の中でも、中標津の工房と同じ匂いがするわ」
「そこ、こんな大きな会場で感動するところですか」
「職人にとっては一番大事なところだよ」
隣のワークショップブースでは、あーちゃんとヒエンさんが忙しく動き回っていた。キーホルダー作りのワークショップ用に、見本のサンプルを並べる作業を手伝っている。あーちゃんが日本から持ってきた彫刻刀で、端材の角を少し丸く仕上げていく様子を、通りかかった他のブースの海外の担当者が興味深そうに覗き込んでいた。
「それ、とても綺麗ですね(It's very beautiful.)」
英語で話しかけられ、あーちゃんは一瞬だけ身を硬くしたが、ヒエンさんがすかさず滑らかな通訳に入り、二人の間に短いやり取りが生まれた。あーちゃんは緊張しながらも、最後には小さく、けれど確かに笑顔を見せていた。
「あーちゃん、今の、すごい進歩じゃない?」
私がカメラを構えながら声をかけると、あーちゃんは少し照れたように俯いた。
「……ヒエンさんが隣にいるから、頑張れる」
その一言には、中標津の工房にいた頃のあーちゃんからは想像できないほどの、素直で温かい感情がにじんでいた。ヒエンさんも、それを聞いて嬉しそうに目を細めている。
夕方近くまで設営作業は続いた。他の出展者たちとの簡単な挨拶回りもあり、七尾さんは慣れない英語と得意の身振り手振りで、それでも案外楽しそうにコミュニケーションを取っていた。日本製の道具に興味を持つ現地の職人たちが、次々とブースを覗きに来ては、七尾さんの寄木細工の見本に目を丸くしていく。
夜、ホテルに戻ると、四人ともさすがに移動と設営の疲れが濃かった。それでも夕食の席では、明日からの本番に向けて、自然と話が弾んだ。
「緊張してませんか、七尾さん?」
ヒエンさんが尋ねると、七尾さんは運ばれてきたフォーを思いきりすすりながら、あっさり答えた。
「してないよ、全然」
「え、本当にですか。明日、たくさん人が来ますよ」
「うん。緊張しても別にノミの切れ味が良くなるわけじゃないしね。それより、このフォー、昨日と違ってスープに深みがある。おかわりしていい?」
その返答に、テーブルの張り詰めた空気が一気に脱力した。あーちゃんとヒエンさんが顔を見合わせて笑い、私はといえば、笑うよりも先に、少しあきれてしまった。ここまで気負いがないのは、もう天性と言うほかない。
食事のあと、七尾さんが煙草吸いたいと騒ぎ出したので、二人でホテルの小さな屋上に上がった。部屋は禁煙のため、七尾さんは食後になるとこうして屋上やバルコニーを探しに行くのが、この旅の日課になりつつあった。湿った夜風が吹く中、旧市街の明かりが遠くまで続いているのが見える。
七尾さんはポケットから、見慣れない金色のパッケージを取り出した。
「それ、いつものアメスピじゃないですね」
「やっぱりないんだよ、こっち。免税店で探したけど、黄色いやつ売ってなくてさ。仕方ないからマルボロゴールドにした」
「似合いますね、なんか」
「そう? 味は全然違うけどね。まあ、贅沢言えないよ、ここでは」
灰皿変わりのビールの空き缶に灰を落としながら、七尾さんは煙をゆっくりと夜空に吐き出した。ベトナムはどこに行っても灰皿があって煙草を吸う場所には困らないが、ホテルの部屋の中だけは別だった。
「七尾さん、本当に、大丈夫ですか」
「なにがさ」
「明日ですよ。ここまで平気そうなの、逆に私の方が心配になってきました」
七尾さんは夜空を見上げたまま、のんびりと答えた。
「なんでアユムさんがそんなにソワソワしてるの。大丈夫でしょ。YouTubeで作業動画あげてるじゃん?あっちの方が覚悟いるよ?それに比べたら、実演なんてホントにただいつも工房でやってることを、いつも通りにやるだけだからさ。場所がハノイに変わっただけで、俺がやることは何一つ変わんないよ」
その言葉には、いつもの飄々とした調子の奥に、確かな職人としての芯があった。気負っていないのではない。気負う必要がないほど、毎日、道具と木に深く向き合い続けてきたのだ。そう思うと、彼の底知れない落ち着きに、少しだけ納得できる気がした。
「アユムさんの方こそ、緊張して眠れなくなったりしないでよ?明日の朝はバインミーが食べれるらしいよ?実演なんかより起きれるかどーかだけが心配だわ」
「私はまあ、記録係なので。カメラのバッテリーさえあれば平気です。絶対叩き起こすので、その心配は大丈夫です」
「記録係も大変でしょ、それはそれで。朝だけはホントにアユムさん頼りだわ」
七尾さんは笑いながら、夜空に浮かぶ、北海道では見えない南国特有の星の並びを、しばらく眺めていた。
「明日、バインミー楽しみだなあ」
その声には、いつも通りの、あの飄々とした調子しかなかった。
屋上から部屋に戻ると、七尾さんは歯を磨いたあと、すぐに『輝ける闇』の続きを開いた。私も、ベッドサイドのスタンドだけを点けて『すべて真夜中の恋人たちの』のページをめくる。しばらくの間、部屋には紙をめくる小さな音だけが響いていた。
「読書する余裕あるんですね」
「余裕があるんじゃなくて、これがないと寝れないんだよ。工房でも、寝る前は必ず何か読んでるからさ」
「仕事も読書も習慣ですね」
「結局、いつもどおりなんだわ」
七尾さんはそう言うと、栞を挟んで本を閉じ、あっという間に寝息を立て始めた。私はもう少しだけ続きを読んでから、明かりを消した。
旧市街の喧騒は、夜が更けても、まだ止む気配がなかった。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




