第3話 ハノイの湿度
飛行機のドアが開いた瞬間、まず感じたのは、匂いだった。
湿った土と、油で揚げ物をする匂いと、どこか甘い果物の匂いが入り混じった、これまで嗅いだことのない空気。中標津の乾いた冷たい風に慣れた身体には、それはまるで別の惑星に降り立ったかのような衝撃だった。
「うわ、これが噂の」
七尾さんがタラップの上で、大きく息を吸い込んで目を細めた。
「湿度、感じます?」
「感じるどころじゃないよ。ムワッと熱いね」
夜だというのに、空気はねっとりと肌にまとわりつく。真冬の北海道から来た三人にとって、それは初めて浴びるアジアの洗礼だった。あーちゃんの隣で、ヒエンさんだけが「懐かしい」というように、深く息を吸い込んでいた。
「やっぱり、この匂いだ」
「ヒエンさん、帰ってきたって感じ?」
「うん、ちょっとだけね」
入国審査を抜けると、菅原さんがてきぱきと荷物のピックアップを仕切ってくれた。手配していた大きめのバンが空港の外で待っていて、五人分の荷物を積み込むと、車は旧市街に向けて走り出した。
「うわあ、本物だ……原チャリの波が本当に押し寄せてくるな。アユムさん、俺たち今、完全に水曜どうでしょうの世界にいるわ」
窓の外を見た七尾さんが、不意に声を弾ませた。
それは凄まじいバイクの洪水だった。信号のタイミングも、車線の概念も、日本のそれとはまったく違うルールで動いているように見える。クラクションが絶え間なく鳴り響き、その音の中に、どこか陽気なリズムすら感じられた。
「渡れるんですか、これ、道路…信号、意味あるんですか」
「渡れますよ。慣れれば大丈夫」
ヒエンさんが笑いながら答えた。彼女にとっては見慣れた光景なのだろう、他の四人が窓に釘付けになっているのを、少しおかしそうに見ていた。
車窓には、屋台や小さな商店がひしめき合う光景が延々と続いていた。電線が幾重にも絡み合い、その下を、荷物を山積みにしたバイクが器用にすり抜けていく。
「アユムさん、見て。あの屋台、鍋で何か揚げてる」
「見えてますよ」
「あっちの店、木材売ってる。ちょっと寄りたいな」
「まだ着いてもいないですよ」
それでも七尾さんの視線は、道具屋らしき店先を通り過ぎるたびに、吸い寄せられるように動いていた。だがその直後、彼は自分のリュックを愛おしそうに抱え直し、ふと職人の顔になって呟いた。
「……にしても、これだけ空気が湿ってると、日本から持ってきたノミの鋼が油断したら一晩で赤サビに喰われそうだな」
その言葉に、私は彼が単なる観光気分ではなく、どこまでも職人としてここに来たのだという事実を突きつけられた気がした。
菅原さんは会場近くのビジネスホテルに泊まる予定だといい、旧市街の入り口で先に車を降りた。
「明日、会場でまた。今日はゆっくり休んでくださいね」
「菅原さん、いろいろありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそです。それじゃあ、また明日」
菅原さんを見送ったあと、四人は旧市街の細い路地の奥にある宿へと向かった。エレベーターのない三階建ての小さなホテルで、部屋は狭いが清潔で、木製の窓枠から旧市街の喧騒がそのまま入り込んでくる。荷物を置くなり、七尾さんは窓を大きく開け放った。
「いい音だな、これ」
「うるさくないですか」
「いや、いい。ベトナム!って感じがするよ」
少し休憩したあと、ヒエンさんの案内で夕食に出かけることになった。彼女が連れて行ってくれたのは、観光客向けの店ではなく、地元の人でにぎわう小さな食堂だった。低い椅子に腰を下ろすと、目の前の鍋でスープがぐつぐつと煮立っている。
「フォーです。まずは基本のやつからね」
運ばれてきた丼から立ち上る湯気には、これまで嗅いだことのない、しかしどこか懐かしい香りがあった。パクチーとライムを絞り入れ、一口すすった七尾さんが、目を丸くした。
「うまい……これ、うまいわ」
「良かった。口に合いました?」
「合うとかいうレベルじゃない。アユムさん、美味いわぁ」
「ホントに美味しいですね」
あーちゃんも珍しく、無言のまま黙々と食べ進めていた。その横顔には、いつもの静けさとは違う、素直な満足感があった。
ヒエンさんは食べながら、これから数日の予定について軽く教えてくれた。明日からの三日間は販売会、その後の二日間は観光、ベトナムのギター職人工房訪問。ヒエンさんは実家に一日だけ寄りたいとのことだったが、ハノイ近郊にあるため、この滞在中はほぼずっと同行してくれるという。
「ギター職人のバックロンさんって、知ってる?」
七尾さんが尋ねると、ヒエンさんは少し考える顔をした。
「名前は聞いたことあります。地元でも有名な人だと思います、たぶん。でも実際に会ったことはないので、私も楽しみです」
「俺も楽しみだ」
七尾さんはそう言って、残りのスープを最後の一滴まで飲み干した。
食堂を出ると、旧市街の夜はまだこれからだった。色とりどりの提灯が並ぶ通りを、四人で並んで歩く。バイクの音、屋台の呼び込み、どこかから流れてくる音楽。すべてが不慣れで、そして、不思議と心地よかった。
「アユムさん、来て良かったね、ここ」
七尾さんが、ふと足を止めて言った。その声には、いつもの飄々とした調子の奥に、確かな満足があった。
「まだ初日ですよ」
「初日でこれだからさ。この先、楽しみじゃない?」
あーちゃんとヒエンさんは、少し先を歩きながら、何か楽しそうに話し込んでいる。養老牛温泉から羽田、解き放たれた機内でもずっと一緒だったはずなのに、その距離感はまだ縮まり続けているようだった。私は隣を歩く七尾さんの横顔を見ながら、これから始まる数日間が、思っていたよりずっと濃いものになりそうな予感を覚えていた。
旧市街の夜風は、湿って、温かかった。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




