第2話 リュック一つと白いビートル
出発の朝、玄関に立った七尾さんを見て、私は拍子抜けした。
足元にあるのは、使い込まれたリュックサック一つだけ。てっきり、いつもの道具箱を何個も抱えてくるものだと思っていた。
「七尾さん、それだけですか」
「うん。これだけ」
「実演用の道具とか、寄木細工の材料とかは」
「必要な分だけ、リュックに入れてきた。鉋も鑿も、厳選してね。まぁ、道具販売してるとこでやるんだから、足りない道具あれば借りれるでしょ」
工房であれだけ道具を大事にしている人だから、荷物も膨大になるものだと勝手に想像していたのだが、いざとなると驚くほど身軽だった。
「もっと荷物多いイメージでした」
「余計なもん持っていくと、それだけ気を使うことが増えるからね。最小限でいいんだよ、旅は」
そう言いながら、七尾さんはリュックを軽々と背負い、玄関先に停めてあった白いニュービートルの鍵を手に取った。工房の仕事用は軽トラだが、遠出のときはいつもこの車と決まっている。褪せた白い塗装が、朝の光を柔らかく反射していた。
「あーちゃん、乗って」
「うん」
あーちゃんは小さなキャリーバッグをトランクに積み込むと、迷わず運転席の後ろに腰を下ろした。私はその隣に、荷物を膝に抱えるようにして乗り込む。三人分の荷物と身体で、車内はそれなりに窮屈だったが、それも含めて旅の始まりらしい気がした。
「カンナ、いってきます」
お隣に住んでいる一人暮らしのおばあちゃん、サワさんに預けられたカンナは、リビングの窓辺で丸くなったまま、私たちの見送りにも一切動じなかった。その徹底した無関心さに、少しだけ安心する。
エンジンをかけると、ビートル特有の少し野太い音が響いた。七尾さんはハンドルを握りながら、いつになく機嫌が良さそうだった。
「まずは、養老牛温泉な」
「ヒエンさん、社員寮生活なんですね」
中標津から養老牛温泉までは、車で三十分ほどの道のりだった。牧草地の間を抜ける道は、朝霧がまだ薄く残っていて、遠くの山並みがぼんやりと霞んで見える。
寮の前に車を停めると、大きなリュックを背負ったヒエンさんが、すでに外で待っていた。ショートカットがよく似合う小柄な女の子で、あーちゃんを見つけた瞬間にピョンと跳ねるようにして大きく手を振る姿は、いかにも活発で可愛らしかった。あーちゃんが窓を開けて手を振ると、ヒエンさんの顔がさらにぱっと輝く。
「ヒエンさん、おはよう」
「おはよう! 七尾さんはじめまして! よろしくお願いします!」
元気いっぱいの声が車内に響く。
「こちらこそよろしくお願いします。こちらアユムさんね」
「アユムさん、はじめまして! おはようございます!」
後部座席にヒエンさんが乗り込み、私は助手席に座った。車内は一気に賑やかで明るい空気に包まれる。あーちゃんとヒエンさんは、二十歳を過ぎたばかりの同い年同士、たちまち二人だけの世界で楽しそうに盛り上がり始める。
「荷物、それだけ? 向こう暑いよ」
「うん、大丈夫。着替え少なめにした」
「私も! でも化粧品は削れなかったなー!」
ヒエンさんの屈託のない笑い声を聞きながら、七尾さんが小さく笑ってバックミラー越しに私を見た。
「アユムさん、若い子は違うね」
「そんなに年変わらないですよ」
「気持ちの若さの話だよ。三十代のアユムさんと、あの活発な二十代の女子との差は明確にあるね」
中標津空港までの道のりは、あっという間だった。小さな空港のカウンターで荷物を預け、保安検査を抜けると、待合室の窓からは、これから乗る小型機の姿が見えた。
「羽田で菅原さんと合流だっけ」
「はい。向こうの国際線のカウンターで待ち合わせって言ってました」
「久しぶりだな、菅原さんと直接会うの」
七尾さんはそう言いながら、リュックの中身を確かめるように、肩紐を軽く叩いた。中には、厳選された道具と、これから始まる数日間への静かな期待が、一緒くたに詰まっているようだった。
羽田空港の到着ロビーで待っていると、遠くから大きく手を振る姿があった。
「七尾さーん! こっちです!」
菅原さんだった。日に焼けた顔に、人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってくる。
「菅原さん、お久しぶりです」
「いやあ、本当に来てくださって嬉しいです。皆さんも、初めまして。ニンジャ・ツールの菅原です」
挨拶を交わしながら、五人での旅がここから本格的に始まった。国際線のカウンターに向かう菅原さんの足取りは軽く、その後ろを、リュック一つの七尾さんと、初めて同い年同士で肩を並べるあーちゃんとヒエンさん、整理された荷物をやや多めに抱えた私が続いていく。
「アユムさん、荷物、それこそ多くない?」
「七尾さんが少なすぎるんですよ」
「余計なもの持っていくと――」
「気を使うことが増える、でしょ。もう覚えました」
保安検査を抜けたところで、七尾さんが急に立ち止まった。
「ちょっと、喫煙所寄ってっていい?」
「まだ時間ありますし、いいですよ」
「これから六時間、吸えないでしょ。今のうちに貯めとかないと」
「煙草って貯められるものなんですか」
「貯められる気がするだけ。気の問題だよ」
「ベトナムでも同じ煙草、売ってるといいですね」
「それが、調べたら向こうじゃほとんど見かけないらしいんだよね。マルボロとかは免税店にあるみたいだから」
「銘柄、変えるんですか」
「郷に入っては郷に従え、だよ。まあ、贅沢言えないでしょ」
そう言いながらも、七尾さんはそそくさと喫煙所に消えていった。
搭乗ゲートへ向かう通路の窓の外には、大きな旅客機が並んでいた。これから、この中の一機が、自分たちをハノイまで運んでいく。
七尾さんは窓に近づき、リュックの肩紐をぎゅっと握り直しながら、小さく呟いた。
「さて、行きますか」
その声には、いつもの飄々とした調子の中に、隠しきれない高揚感が滲んでいた。
離陸してしばらくすると、機内は落ち着いた静けさに包まれた。あーちゃんと活発なヒエンさんも、さすがに移動の緊張からか早々に肩を寄せ合って眠ってしまい、七尾さんは膝の上で文庫本を開いていた。開高健の『輝ける闇』。ページの端が少し反っているのを見るに、何度も読み返している一冊らしい。
「それ、好きなんですか」
「うん。ベトナムが舞台の小説でさ。せっかく行くならと思って」
「読んでから行くとか、真面目ですね」
「真面目っていうか、単純に気になっただけだよ。俺らが見るハノイと、この本の中のハノイ、どれくらい違うのか気になるじゃん」
七尾さんはそう言うと、また静かにページに視線を戻した。
私も自分のバッグから、読みかけの川上未映子の『すべて真夜中の恋人たちの』を取り出した。静かな夜の時間を丁寧にすくい上げるような文体が、なんとなく今の自分の心境に合っている気がして、旅の間ずっと持ち歩いていた。
「アユムさんも読むんだ」
「はい。移動時間、意外と長いので」
七尾さんは満足そうに頷くと、また静かにページをめくり始めた。座席の小さな読書灯の下、二人でそれぞれの本に沈み込むその時間は、旧市街の喧騒とはまったく違う、もう一つの静かな旅の始まりだった。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




