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七尾工房、ベトナムへ行く【番外編】  作者: 七尾 拓哉


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第1話 菅原さんからの封筒

その封筒が届いたのは、十月にしては珍しく風のない、静かな午後のことだった。

郵便受けを覗きに行った。私の名前はアユム。北海道の東の果て、中標津にある「七尾工房」で、製作の記録係兼見習いとして働き始めて数年が経つ。三十代の私にとって、この静かな工房での日々は、何物にも代えがたい心地よいものだった。


主人の七尾拓哉は、四十代半ばに差し掛かるギター職人だ。東京のギター製作の専門学校で技術を学んだあと、長野にある九鬼楽器で工房を構える九鬼源蔵のもとに弟子入りし、何年もかけて腕を磨いた。三十歳のとき、この最果ての地、中標津に自分の工房を構えて独立した。彼が作るギターは、木材の声を極限まで聴き取り、その土地の空気すら音に閉じ込めたような奇跡的な響きを持つ。しかし本人は、職人としての底知れない凄みを感じさせないほど、普段はのんびりとしていてどこか飄々とした、掴みどころのない人だった。ギター以外にも家具製作や寄木細工の小物製作が得意で、インスタグラム等のSNSで人気な職人だ。


そんな七尾さんの技術を慕って、工房の一角にはもう一人、若い先客がいた。熊やフクロウといった繊細な木彫り作品を作っているあーちゃんだ。二十代前半の彼女は、職人としての並外れた集中力と、木の目を読み切る確かな手並みを持っている。ただ、極端に寡黙な性質で、一日の大半を声も立てずに木と向き合って過ごし、めったに自分から感情を表に出すことがない。私と七尾さんは、そんな彼女の静かな熱量をいつも温かく見守っていた。


中標津の郵便配達は、いつも軽ワンボックスで乾いた砂利道を走ってくる。エンジン音が遠ざかるのを確認してから、木箱でできた郵便受けの蓋を開けると、いつもの請求書やDMに混じって、見慣れない厚手の封筒が一通、挟まっていた。


差出人の欄には「ニンジャ・ツール株式会社」と印刷されていた。

工房の道具箱の中にも、そこの鋸が何本かある。切れ味が良くて長持ちする、七尾さんお気に入りのメーカーだ。七尾工房に商品提供をしてくれていて、七尾さんはアドバイザー的な立ち位置にいるようだ。担当の菅原さんとは、何度か電話でやり取りしたことがあった。


「七尾さん、ニンジャツールさんから封筒来てます」


作業室に持っていくと、七尾さんは鉋の刃を研いでいた手を止めて、少し意外そうな顔で受け取った。ペーパーナイフ代わりに使っている古いノミの先で封を切り、中の書類にざっと目を通す。

しばらく黙って読んでいた七尾さんの眉が、少しずつ上がっていくのが見えた。


「……ベトナムだって」


思わず聞き返した私に、七尾さんは書類をそのままこちらに差し出した。

招待状だった。来年の一月、ベトナム・ハノイで開催される世界的な道具販売イベント。ニンジャ・ツールが現地代理店と組んで行う、日本製手工具の展示販売会。そこに、七尾さん本人に来てほしい、という依頼だった。


「本人にって、デモンストレーションですか」


「いや、それだけじゃないっぽいんだよなあ」


文面を読み進めると、事情が見えてきた。半年ほど前、ニンジャ・ツールがヨーロッパで行った同様の販売会で、七尾さんが以前に作った寄木細工の端材を材料として使ったワークショップが開かれていたらしい。来場者がその場で新商品の鋸で切り出し、鉋をかけ、やすりで仕上げてキーホルダーを作る、という体験型の企画だった。それが予想以上に好評で、会場の一角にずっと行列ができていたのだという。


「知らなかったです」


「俺も、寄木の材料卸して終わりだと思ってた。人気だったなんて、今初めて知ったよ」


七尾さんはそう言って、他人事のようにひらひらと書類を振った。喜んでいるのか困っているのか、いまいち掴めない。菅原さんの文面には、こう綴られていた。


『あの企画が好評だったのは、材料そのものの美しさがあったからだと、来場した方々の声で確信しました。今回は、ぜひ七尾さんご本人に現地で、寄木細工の魅力を直接伝えていただけないでしょうか』


「行くんですか?」


「うーん、まあ、行ってもいいけどさ」


七尾さんは唸りながら、椅子の背もたれに体重を預けて、窓の外を見た。北向きの窓からは、色を失いかけた牧草地が見える。ここ数日、朝の霜が濃くなってきていた。


「実はさ、俺、ずっとベトナムに行きたかったんだよね」


あっさりとした調子で、七尾さんが言った。


「え、そうなんですか」


「うん。『水曜どうでしょう』っていう番組、知ってる? 北海道のローカル番組なんだけどさ。あれでベトナムを原チャリで1週間かけて縦断するって企画があってね。ひたすら北から南まで走るやつ。もうボロボロになりながら」


「知らないです、それ」


「もう二十年くらい前のテレビ番組だからね。俺が高校生の頃は大人気だったよ。それ以来、いつか自分も行ってみたいなあ、って、ずーっと思ってた。忘れてたけど」


あまりに軽い調子で明かされた動機に、私の方が少し拍子抜けした。寄木細工の評価とか、東南アジアの木工技術への興味とか、もっと職人らしい理由を想像していたのに。


「道具的な理由じゃないんですね」


「そっちもあるよ。湿度も全然違うし、向こうの木の乾かし方とか、道具の手入れの仕方とか、気になるからね。でもまあ、半分以上は水曜どうでしょうの影響だね」


七尾さんはそう言って、悪びれもせずに笑った。


そこに、木彫り用の彫刻刀を片付けていたあーちゃんが、静かに顔を上げた。めったに口を開かない彼女が、珍しくはっきりした口調で言った。


「行けばいいのに」


短い一言だったが、七尾さんが目を丸くする。


「お?そんなこと言うんだ」


「気になるなら、行けばいい。それに、七尾さんの寄木細工が向こうで喜ばれたって話、なんか、嬉しい」


あーちゃんはそう言うと、また作業に戻ろうとした。だが手を止めたまま、少し迷うような間があってから、付け加えた。


「わたしも、行きたい」


今度は私が目を丸くする番だった。あーちゃんが自分から「どこかへ行きたい」などと言うのを、私はこの工房に来てから一度も聞いたことがなかったからだ。


「あーちゃんが?」


「向こうの木彫りとか、装飾とか、見てみたい」


言葉少なだったが、その目には確かな熱があった。七尾さんはしばらくあーちゃんを見つめてから、ふ、と小さく笑った。


「じゃあ、三人で行くか。アユムさんも来るでしょ」


「私もですか」


「アユムさん、通訳できないでしょ」


「英語もベトナム語もできませんけど」


「だから記録係。あと、荷物持ち」


あまりに雑な理由だったが、断る気はさらさらなかった。三日間の販売会、迅速な移動、環境の変化、そして残りの二日はハノイ観光と、現地のギター職人を訪ねる予定も菅原さんから提案されているという。


問題は通訳だった。英語はどうにか片言で通じても、現地の言葉はまったくわからない。会場には英語が話せるスタッフもいるはずだが、木の性質や寄木細工の技法についての専門的なニュアンスまでは難しいだろう、と七尾さんが眉を寄せる。


「まあ、最悪、身振り手振りでどうにかなるっしょ。菅原さんの方でそういうスタッフ、用意してくれてるだろうし」


七尾さんはそう言って、あまり深刻には捉えていない様子だった。

その時、あーちゃんがまた口を開いた。


「バイト先に、ヒエンさんがいる」


「ヒエンさん?」


「わたしがバイトしてる旅館で働いているベトナム人の女子留学生。日本語も上手だし、たぶん……頼めば、来てくれると思う」


普段、自分のことすら語らないあーちゃんが、ここまで具体的に人の名前を提案するのは初めてだった。七尾さんも私も、思わず顔を見合わせる。


「仲、いいんだね」


「うん」


短い返事だったが、その「うん」には、これまであーちゃんについて知らなかった彼女の人間関係の広がりが、確かに含まれている気がした。


その日の夜、あーちゃんはさっそくヒエンさんに連絡を取ったらしい。翌朝、工房に来るなり、あーちゃんは珍しく少し早口で報告した。


「ヒエンさん、帰省する時期と重ねてくれるって。日程合わせて一緒に行ってくれるって」


「本当に?」


「うん。すごく喜んでた」


工房の主である三毛猫のカンナが、薪ストーブの前で丸くなったまま、そんな私たちのやり取りを尻尾の先だけでゆっくり揺らして眺めていた。


こうして、招待状が届いてから一週間も経たないうちに、七尾さんと私とあーちゃん、そしてヒエンさんの四人でハノイへ行くことが決まった。菅原さんへの返信は、七尾さんにしては珍しく、その日のうちに書き上げられていた。理由の半分がテレビ番組だったとは、菅原さんもきっと知らないだろう。

工房の壁には、今日もリボン柄のジャズベースが静かに掛かっている。一日の仕事が終わると決まって、七尾さんがこの古いベースを手に取る。アンプには繋がず、生音のまま、地を這うような低いルート音をひたすら愛おしそうに爪弾くのが、彼の夜の習慣だった。それはまるで、かつて長野の激しいノイズの中で、ある大切な人の声を支えていたという、彼の青春の原点を確認するような儀式に見えた。


「向こうで美味いフォー食べようね」


七尾さんは窓の外を眺めながら、誰に言うでもなく、そんなことをのんびりと呟いていた。

窓の外では、冬の気配を含んだ風が、少しずつ強くなり始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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この物語を一緒に削り出していただけると嬉しいです。


七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。

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