第13話 ヒエンのいないハロン湾、あるいは地球のノミ
観光二日目の朝、私たちの旅は小さな変化を迎えた。
「一日だけ、実家に顔を出して両親に元気な姿を見せてくるね。夕方には必ずハノイに戻るから、三人は迷子にならないで待ってて!」
朝食の席でヒエンさんが少し申し訳なさそうにそう切り出し、私たちは一日だけ別行動を取ることになった。いつも私たちの数歩前を軽やかに歩き、ハノイの荒々しい喧騒と言葉の壁を優しく繋いでくれていた彼女の姿がなくなると、ホテルのロビーが急に広く、そして少しだけ静かになったように感じられた。
「ヒエンさんがいないと、急に心細くなりますね。メニューの注文すら緊張する」
「本当だねえ。あの頼もしい案内人がいないと、俺たちただの言葉の通じない迷子だからさ」
少し寂しそうに微笑むあーちゃんの肩を叩きながら、私たちはヒエンさん抜きでも安心して行ける、日本語ガイド付きの「ハロン湾一日観光ツアー」の送迎バスに乗り込んだ。
ハノイの街を抜け、のどかな田園風景を走ること数時間、バスが到着したのは、海のシルクロードとも呼ばれるハロン湾の活気ある港だった。用意された大きな木造のクルーズ船に乗り込み、ゆっくりと湾内へと滑り出していく。
デッキに出て、心地よい潮風を浴びた瞬間、私たちは言葉を失った。
エメラルドグリーンの穏やかな海原の向こうに、霧に霞んだ無数の巨大な奇岩や島々が、まるで神様が落とした彫刻のようにそびえ立っていたのだ。大小さまざまな岩が、切り立った崖のまま海面から幾重にも突き出している光景は、圧倒的なスケールと静寂で迫ってきた。
「すごいな、これ……本当にすごいわ……」
七尾さんはクルーズ船の手すりに身を乗り出し、流れる奇岩の複雑な岩肌を、まるで生き物でも見るかのように食い入るように見つめていた。その目は完全に職人のそれになっていた。
「アユムさん、これ見てよ。あの岩の絶妙なうねり、何万年もの気の遠くなるような風と波の浸食だけで削り出されたんだよ。人間がどれだけ精密な道具やノミを使って計算しても、この自然のランダムな美しさには絶対に敵わない。地球っていう、とんでもなくスケールの大きな弦楽器職人が、時間をかけて形を切り出したアートだわ、これは。この岩の含水率はどれくらいなんだろうねえ」
「七尾さん、世界遺産の絶景を見てまで含水率の話をしないでください」
私が呆れ半分でツッコミを入れると、七尾さんは「いやいや、職人としては一番気になるところでしょ」と悪びれずに笑った。でも、この人は世界のどこに行っても、どんな景色を見ても、結局は「削る」ということ、そして「木や素材の声を聴く」ということの真理に繋がっているのだなと、私は隣で深く感心していた。
船内で贅沢な海の幸のランチをいただいた後、私たちは「スンソット洞窟」と呼ばれる巨大な鍾乳洞の中を探検した。ライトアップされた洞窟内部は、信じられないほど広大で、天を突くような巨大な鍾乳石がいくつも垂れ下がっていた。洞窟内はひんやりとしていて、外のハノイの湿度とは違う、ひっそりとした湿気が満ちている。
「なんか、ここは天然の巨大な乾燥室みたいだな。じっくり木を寝かせるのに良さそうだ」と、ここでも七尾さんは独自の職人ロジックを展開していた。
あーちゃんは、無数につららのように垂れ下がる鍾乳石の不思議な造形を見上げながら、何かをじっと考え込むように、自分の手のひらをそっと濡れた岩肌に当てていた。ヒエンさんが隣にいないことで、あーちゃんの口数はいつもよりさらに少なかったが、その目にはハロン湾の壮大な陰影と、自然が作り出した圧倒的な立体感が、しっかりと焼き付けられているようだった。
クルーズを終え、夕方にハノイの旧市街へ戻ってくる頃には、すっかりあたりは黄昏時の情緒ある雰囲気に包まれていた。
少し疲れた足取りでホテルのロビーに入ると、そこには見慣れた大きなリュックを足元に置いた、満面の笑みのヒエンさんが待っていた。
「みんな! お帰りなさい! ハロン湾はどうだった? 迷子にならなかった?」
「ヒエンさん!」
あーちゃんの顔が、この旅で一番と言っていいほどぱっと明るくなり、声のトーンが跳ね上がった。二人が嬉しそうに駆け寄って手を繋ぎ合う姿を見て、私は、一日離れていただけで、彼女たちの絆がどれほど特別なものになっていたかを、改めて温かい気持ちで思い知らされたのだった。ヒエンさんの存在が、私たちの旅の「調律」を完璧にしてくれているのだと、ハノイの夕暮れの中で深く実感していた。




