最終話 最後の夜と白いビートル
「最後の夜だから、私の大好きな特等席へ連れていくね!」
ハノイ滞在の最終日の夜、実家から戻ったヒエンさんが、とんでもないサプライズを用意してくれていた。ホテルの前に、小さなスクーターに乗って現れたのだ。
「えっ、ヒエンさん、自分で運転するんですか?」と私が驚きの声を上げると、「もちろん! ベトナムの大学生はみんなバイク乗るよ」と、ヒエンさんは自慢げにハンドルを握って微笑んだ。
「あーちゃん、後ろに乗って! ハノイの風になろう!」
ヒエンさんがピンク色のヘルメットを差し出すと、あーちゃんは一瞬だけ目を丸くしたが、迷うことなくそれを受け取り、頭に被った。そして、ヒエンさんの華奢な腰を後ろからぎゅっと抱きしめるようにして、シートに腰を下ろした。
ブォン、と小さな排気音が響き、二人が乗ったスクーターは、あのもの凄いバイクの洪水の中へと、滑らかに溶け込んでいった。
夕暮れのオレンジ色の光の中、何百台ものバイクがひしめき合うハノイの大通りを、二人のスクーターが風を切って疾走していく。ヒエンさんの背中にしっかりと身を預け、流れる旧市街のネオンを見つめるあーちゃんの長い黒髪が、ハノイのぬるい風に吹かれて美しく揺れていた。
私と七尾さんはその後ろを、Grabで呼んだタクシーの中からハラハラしながら、けれど温かい目で見守っていた。
「……なんかさ、あーちゃん、完全にハノイの湿度に馴染んだね。中標津にいた頃の、あの硬く閉じてた繊維が、すっかり柔らかくほぐれてるわ」
七尾さんが窓の外を見つめながら、誰に言うでもなく優しく呟いたその言葉が、私の胸に深く残った。
しばらくして、大通りの開けた広場のような場所でスクーターが止まり、私たちもタクシーを降りて合流した。あーちゃんはヘルメットを外しながら、見たこともないような晴れやかな笑顔で息を切らせていた。
それを見た七尾さんの目が、急に少年のように輝きだした。
「ねえヒエンさん、これ、俺も後ろに乗せてもらっていい? ずっと原チャリでベトナム走るの夢だったんだよ!」
「いいですよ、乗ってください!」
ヒエンさんは大笑いしながら、あーちゃんが使っていたヘルメットを七尾さんに渡した。七尾さんは「おー、ぴったり」と嬉しそうに頭に被ると、大柄な体を縮めるようにしてヒエンさんの後ろにまたがった。
「よし、ヒエンさん、走ろう!」
「出発します!」
再び走り出したスクーターの後ろで、七尾さんは「うおーーっ!! すごい! 風が全然違う! タクシーの中から見るのとは完全に別世界だわこれ!!」と、ハノイの喧騒のど真ん中で大絶叫していた。バイクの波に揉まれながら、満面の笑みで風を浴びる七尾さんの姿は、完全に高校生の頃に憧れた旅そのものを体現しているようだった。
広場を一周して戻ってくると、七尾さんは興奮冷めやらぬ顔でヘルメットを脱ぎ、今度は私をぐいぐいと押し出した。
「アユムさん、これ絶対乗ったほうがいい! 記録係なんだから、ハノイの本当の含水率を肌で記録しなよ!」
「えっ、私ですか!? いや、さすがに……」
「大丈夫、アユムさん乗って!」と、ヒエンさんも後ろを振り返って手招きしている。
観念した私は、まだ七尾さんの体温が残るヘルメットを被り、ヒエンさんの後ろにしがみついた。
スクーターが加速した瞬間、私は思わず息を呑んだ。
肌にぶつかってくる空気の圧倒的な生ぬるさ、すぐ横を並走する見知らぬバイクのエンジンの振動と熱気、そして強烈な排気ガスの匂い。タクシーのガラス一枚に遮られていた「ハノイの現実」が、容赦なく五感に飛び込んできた。
「アユムさん、大丈夫ですかー!?」
「大丈夫です! でも、すごい! 本当に風が肌に突き刺さるみたいです!」
クラクションの洪水の中を器用にすり抜けていくヒエンさんの背中は、驚くほど頼もしかった。ただの観光客として街を見るのではなく、いま、自分たちもこのハノイという巨大な生き物の血流の一部になっている――その猛烈な一体感と疾走感に、私は胸の奥が熱くなるほどの深い感動を覚えていた。
バイク体験を終えて完全に調律が整った四人は、旧市街の小さな食堂へ、もう一度足を運んだ。初日の夜にヒエンさんが案内してくれた、地元の人で行列ができる、あの薄暗いフォーの店だった。
「最後はさ、やっぱりここに戻ってきちゃうよね」
七尾さんがそう言って、初日と同じカウンターの席にのんびりと腰を下ろした。この数日間、もう何度目かわからないフォーを注文しながら、その顔には、初日と何一つ変わらない飄々とした満足感があった。
「七尾さん、結局、ハノイに来てから毎日欠かさずフォーを食べてましたよね」
「うまいんだもん、しょうがないじゃん。毎日スープをチェックしにきてるの」
その一貫したおかしな態度に、私はもうあきれるのを通り越して笑うしかなかった。あーちゃんとヒエンさんも、顔を見合わせて小さく笑っている。
運ばれてきた熱いスープをすすりながら、この数日間の出来事が、自然と会話のテーブルに上った。販売会のもの凄まじい熱気、旧市街でのドタバタした値切り交渉、観光バスでの名所巡り、線路通りでの記念写真、水上人形劇の爆笑、ハロン湾の圧倒的な景色、バックロンさんの工房で過ごした息を呑むような時間、そして、さっき四人で浴びたハノイの風。どれも、つい昨日のことのようでありながら、もうずいぶん昔の、愛おしいモラトリアムのようにも感じられた。
「あーちゃん、中標津に帰ったら、例の個展の話、どうするの?」
私がそっと尋ねると、あーちゃんはしばらく箸を止めて、自分の短く切り揃えられた爪を見つめ、考えるような間を置いた。
「……受けようと、思う。ちゃんと、やる」
その声は静かだったが、そこには一ミリの迷いもなかった。
「本当に? 結構準備大変だよ」
「うん。ミンさんに言われたことを、昨日の夜、ずっと考えてた。三日かけて、たった数センチの蓮の模様を、木の目を読みながら丁寧に彫るって言ってたこと。わたしも、中標津でちゃんと時間とか恐怖とかに向き合ったら、自分にしか出せない新しい形が見えるかもしれない、って思ったから」
あーちゃんのその強い言葉に、ヒエンさんが隣で自分のことのように嬉しそうに手を叩いた。
「やった! あーちゃん、絶対いい個展になる! わたし、中標津に戻ったら一番に手伝いに行くからね!」
「決めたなら、あとは自分のノミを信じて彫るだけだね」
七尾さんがそう言って、フォーのスープを最後の一滴まで、いつもの調子で豪快に飲み干した。特別に先輩風を吹かせて何かを言い聞かせるでもなく、ただ、いつも通りに。だがその一言には、あーちゃんの大きな決断をまっすぐ肯定して受け止める、確かな職人としての信頼の質量があった。
食事を終えて店を出ると、旧市街の夜は、これが最後だと思うと、いつもより少しだけ名残惜しく、空気の湿度まで愛おしく感じられた。色とりどりの提灯の灯り、バイクの激しい洪水、屋台の呼び込み。数日ですっかり身体に馴染んだその喧騒が、明日にはもう聞けなくなる。
「ヒエンさん、今回の旅、本当に、本当にありがとうございました。ヒエンさんがいなかったら、私たちは今頃ハノイの迷子でした」
私と七尾さんが深くお礼を言うと、ヒエンさんは優しく首を振った。
「こちらこそ、誘ってくれて本当に嬉しかった。楽しかった。それに――」
彼女はあーちゃんの肩をそっと抱き寄せて、少し照れたように続けた。
「あーちゃんと、私の生まれたこのハノイの街で、一緒に大切な時間を過ごせて、本当に幸せだったから」
「……わたしも。ヒエンさん、ありがとう」
あーちゃんの短い返事には、いつになく確かな、永久に凍ることのない温かさが込められていた。
宿への帰り道、四人は特に急ぐでもなく、旧市街の狭い路地をゆっくりと歩いた。七尾さんが、ふと足を止めて南国の夜空を見上げる。
「明日にはさ、もうこの騒がしくて温かい空、見られないんだねえ」
「寂しいですか、七尾さん」
「寂しいっていうか……またこの湿度に、ノミを研ぎ直しに来たいな、って感じかな」
その言葉には、いつもの飄々とした調子の中に、この街への確かな愛着が滲んでいた。
翌朝、空港へ向かうタクシーの中は、来たときよりもずっと荷物の容積が増えていた。あーちゃんが手に入れた木製の魚の置物、七尾さんが値切りに失敗して買った派手な布地、バックロンさんから譲り受けた大切な木片、そしてそれぞれが買い込んだ大量の土産物。四人分の思い出の残響が、トランクいっぱいに詰め込まれていた。
空港のロビーで、ヒエンさんはもう少しだけハノイに残り、実家でゆっくり家族と過ごしてから日本に戻るという。見送りに来た彼女と、あーちゃんが最後にもう一度、言葉を交わす代わりにしっかりと抱き合った。
「また、いつでもこっちにおいでね、あーちゃん」
「うん。自分で彫った作品を持って、絶対にまた来る」
その約束が、単なる社交辞令ではないことは、二人の晴れやかな表情を見れば誰の目にも明らかだった。保安検査場へ向かう三人を、ヒエンさんは姿が見えなくなるまで、いつまでもいつまでも手を振って見送ってくれていた。
帰りの機内、七尾さんは離陸して三分もしないうちに、深い眠りに落ちた。ハノイでの数日間の過酷で幸福な疲れが、ようやく表に出てきたのかもしれない。その寝顔は、普段の飄々とした様子とは違う、すべての仕事を完璧に終えた職人のように穏やかなものだった。窓の外には、遠ざかっていくハノイの街並みが、雲の切れ間から小さく、けれど鮮烈に見えていた。
根室中標津空港に着いたのは、翌日の昼過ぎだった。
到着口の自動ドアを出た瞬間、凍りつくような冷たい北風が、容赦なく頬の皮膚を刺した。数日前まで浴びていた、あの湿った温かい空気とは、まるで完全に別の惑星だった。
「寒いな、やっぱり! 体温が一気に持っていかれるわ」
七尾さんがそう言って、首をすくめて大きく身震いした。あーちゃんもマフラーに顔を埋める。
白いニュービートルは、駐車場の隅で、何日か前と少しも変わらない姿で三人の帰りをじっと待っていた。荷物をトランクに放り込み、キーを捻ってエンジンをかけると、あの懐かしい、野太いエンジンの唸りが車内に響き渡った。この不器用な重低音を聴いたとき、私はようやく、自分たちのホームグラウンドに帰ってきたのだと深く息を吐いた。
工房に戻り、私たちは荷物も解かないまま、まずはお隣の一人暮らしのおばあちゃん、サワさんの家へと向かった。預かってもらっている三毛猫のカンナを引き取るためだ。サワさんの家の玄関を開けると、ストーブの温かい熱気と一緒に、甘いお茶の香りが漂ってきた。居間のソファの上で丸くなっていたカンナは、私たちの顔を見るなり「ニャア」と少し不満げにひと鳴きして、ゆっくりと伸びをした。
「お帰りなさい。ベトナム、楽しかった?」
サワさんが目を細め、温かい湯気の立つお茶を淹れながら笑顔で迎えてくれた。
「楽しかったです、すごく。私、中標津で、新しいものをたくさん彫ります」
あーちゃんが、カンナをそっと抱き上げながら、いつになくはっきりとした、芯のある大きな声でそう答えた。サワさんが少し驚いたように大きな目を瞬かせ、それから、あーちゃんの瞳の奥にある新しい光に気づいたように、本当に嬉しそうに優しく笑った。
「そうかい、それは楽しみだねぇ。カンナも寂しがってたよ」
カンナを腕に抱いたあーちゃんと一緒に、私たちは雪の残る小道を歩いて、静かな工房へと戻った。
七尾さんはリュックを下ろすと、まっすぐ作業室の壁際へと歩いていった。
そこには、いつものリボン柄のジャズベースが、静かに掛かったまま、主人の帰りを待っていた。七尾さんは愛おしそうにベースを手に取り、アンプには繋がず、右手の指先で弦を一本だけ、ポロンと静かに弾いた。
生音の、乾いた低い鉄の音が、中標津の静まり返った木造の空間に優しく響いて、ゆっくりと消えていった。
「ただいま」
誰に言うでもなく呟かれたその一言は、ハノイのぬるい夜風の残響と、いつもの中標津の厳しい日常の含水率とを、一番正直な美しい音で、静かにつなぎ合わせているようだった。
窓の外では、北海道の冬の風が、今日もカラマツの防風林を鳴らしながら、乾いた美しい音を立てていた。
(番外編「七尾工房、ベトナムへ行く」・了)
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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七尾工房のストーブを温めて、また次の夜にお待ちしています。




