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第25話 兵庫、立ち上がる

 大坂の牢は、湿った土と鉄の匂いが漂っていた。


 兵庫は壁にもたれ、深く息を吐いた。

 肩の傷はまだ痛む。

 腕には縄の跡が残り、血が乾いて黒くなっていた。


 だが――

 その目だけは、決して死んではいなかった。


(若君……皆……)


 目を閉じると、裏大奥の笑顔が浮かぶ。


 お紺の優しい微笑み。

 お梅の明るい声。

 お蝶の華やかな舞。

 お鈴の静かな眼差し。


 そして――

 若君の無邪気な笑顔。


(拙者は……守れなかった)


 胸が締めつけられる。


(だが、終わりではない)


 兵庫はゆっくりと拳を握った。


 ◆


 牢の前に、牢番が立っていた。

 粗野な男だが、兵庫の様子を見て眉をひそめる。


「お前、まだ諦めてねぇのか」

「諦める……?」


 兵庫はゆっくりと顔を上げた。


「拙者は、諦めるために生きておらぬ」

「……はぁ?」

「守るべき者がいる限り、拙者は立ち上がる」


 牢番は呆れたように笑った。


「バカかお前は。仲間は散り散り、ガキは江戸に送られ、お前は死罪寸前だぞ」

「それでも……」


 兵庫は静かに言った。


「拙者は、若君を取り戻す」


 牢番の笑いが止まった。


「……本気で言ってんのか」

「本気でござる」


 兵庫は目を閉じた。

 主膳が血を流しながら叫んだ言葉が、耳に残っていた。


『若君を……渡すものかぁぁ!!』

『償わせてくれ……!』


 兵庫の胸が熱くなる。


(主膳殿……拙者はあなたの(いのち)を無駄にはせぬ)


 兵庫は拳を握りしめた。


 ふと、遠くから声が聞こえた気がした。


『兵庫。お前はひとりではない』


 左門の声だ。


(左門殿。あなたもまた、戦っておるのだな)


 兵庫はゆっくりと立ち上がった。


 ◆


 牢の中で、兵庫は天井を見上げた。


「若君……皆……」


 声が震える。


「拙者は……必ず、戻る」


 拳を握り、胸に当てる。


「裏大奥は……拙者の家でござる。家族を取り戻すまで、拙者は死なん!!」


 その叫びは、牢の石壁に響き渡った。

 牢番が驚いて振り返る。


「お、おい……!」


 兵庫は牢番をまっすぐ見つめた。


「頼みがある」

「な、なんだ……?」

「外に出る方法を、教えてほしい」


 牢番は息を呑んだ。


「お前……本気で逃げる気か……?」

「うむ。拙者は若君を迎えに行く」


 牢番はしばらく兵庫を見つめていたが――

 やがて、深いため息をついた。


「……バカだな、お前は」

「よく言われるでござる」

「だが……」


 牢番は鍵を握りしめた。


「そういうバカは、嫌いじゃねぇ」


 鍵が、静かに回る音がした。

 鉄の扉が開いた。


 兵庫はゆっくりと外へ出る。


「恩に着る」

「礼なんざいらねぇよ。どうせ俺も処罰されるんだ。だったら、お前みたいな奴に賭けてみたくなっただけだ」


 兵庫は深く頭を下げた。


「必ず、若君を取り戻す」

「行け!!」


 兵庫は走り出した。


 その背中は、裏大奥を守るために立ち上がった武士そのものだった。


 ◆


 牢を抜け、夜の大坂の街へ飛び出す。

 風が兵庫の髪を揺らす。


 兵庫は走りながら叫んだ。


「待っておれ!! 拙者が必ず迎えに行く!!」


 その声は、夜空に響き渡った。


 そして――

 兵庫の奪還の旅が始まった。

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