第22話 最後の夜
裏大奥を包囲する幕府の影は、日が暮れるにつれ、さらに濃くなっていった。
外からは、草を踏む音も、息遣いも聞こえない。
だが、確かに囲まれている。
その静けさは、まるで嵐の前の海のようだった。
◆
夕餉の時間。
兵庫は、裏大奥の全員を囲炉裏の前に集めた。
お紺、お梅、お蝶、お鈴、若君、左門、主膳。
全員が揃うのは、久しぶりだった。
兵庫は深く息を吸い、静かに言った。
「皆……聞いてほしい」
囲炉裏の火が、兵庫の横顔を照らす。
「今夜、幕府が動く」
全員が息を呑んだ。
「黒田監物が裏大奥を取り潰すつもりでおる。明日の朝までに、踏み込んでくる」
若君が震える声で言った。
「兵庫兄上……僕、どうなるのですか……?」
兵庫は若君の手を握った。
「若君は必ずお守りします。拙者の命に代えても」
兵庫は皆を見渡し、言葉を絞り出した。
「皆、今夜のうちに逃げてほしい」
娘たちの表情が一気に変わる。
「兵庫殿……何を言っているのですか?」
お紺が震える声で言う。
「うちらを逃がして、兵庫様だけ残るつもりなん……?」
お梅が涙をこらえる。
「兵庫、あんたを置いて逃げるなんて、できるわけないだろ……」
お蝶が扇子を握りしめる。
「兵庫殿……そんなこと、許しません……」
お鈴の声は震えていた。
兵庫は首を横に振った。
「皆を巻き込むわけにはいかぬ。ここで戦うのは、拙者と左門殿だけで十分でござる」
左門が目を細めた。
「兵庫、本気で言っているのか?」
「うむ。皆は、生きてほしい」
お紺が立ち上がった。
「兵庫殿、私は逃げません」
「お紺殿……!」
「兵庫殿を置いて逃げるくらいなら、ここで死んだ方がましです」
お梅も立ち上がる。
「うちもや! 兵庫様をひとりにするなんて……絶対嫌や!」
お蝶が扇子を閉じて言った。
「兵庫。あたしはね……守りたい人のそばにいたいんだよ」
お鈴は静かに言った。
「兵庫殿。私たちは家族です。家族を置いて逃げるなど……ありえません」
兵庫は言葉を失った。
(皆……こんなにも……)
若君が兵庫の袖を掴んだ。
「兵庫兄上……僕も……逃げません」
「若君……!」
「兵庫兄上を置いて逃げるなんて、絶対に嫌です……!」
若君の愛らしい目から涙がぽろぽろと落ちる。
「兵庫兄上がいない世界なんて……僕は……生きたくありません……!」
兵庫は若君を抱きしめた。
「若君……! そんなことを言うでない……!」
左門が静かに口を開いた。
「兵庫。お前はひとりで背負いすぎだ」
「左門殿……」
「裏大奥は、お前だけのものではない。皆の家だ。皆で守るべき場所だ」
左門は刀を置き、兵庫の肩に手を置いた。
「兵庫。お前はもうひとりではない」
兵庫の目に涙が滲んだ。
◆
その夜。
裏大奥は、最後になるかもしれない食卓を囲んだ。
お紺が作った温かい汁物。
お梅が育てた野菜。
お蝶が飾った花。
お鈴が整えた食卓。
若君は、皆の顔を見ながら言った。
「……僕、この家が大好きです」
兵庫は涙をこらえながら笑った。
「拙者もでござる……」
左門は静かに呟いた。
「……悪くない夜だ」
◆
食後。
娘たちは兵庫の前に立った。
お紺
「兵庫殿……生きてください。私も、生きます。あなたと……また笑うために」
お梅
「兵庫様……うち、強くなるで。また一緒に畑やろな……!」
お蝶
「兵庫。あたしの舞……また見てよね。絶対だよ?」
お鈴
「兵庫殿。あなたは……私の誇りです」
兵庫は涙をこぼした。
「皆……ありがとう……!」
◆
裏大奥の灯りは、いつもより少しだけ明るかった。
誰も眠れない。
誰も泣きたくない。
誰も別れたくない。
だが、夜は静かに、更けていく。
そして、裏大奥の外では――
黒田監物が、刀を撫でながら呟いた。
「……夜明けとともに、踏み込む」
その声は、冷たく、残酷だった。




