第15話 恋の火花
霧島左門の登場は裏大奥に不穏な空気をもたらした。
幕府の影は確かに迫っている。
はずなのだが――
裏大奥の日常は、妙に賑やかだった。
「兵庫殿、今日の買い出しは私が同行します」
お紺がきっぱりと言う。
「いやいや、兵庫様にはうちがついていくで!」
お梅が胸を張る。
「兵庫、今日はあたしの舞の稽古に付き合ってもらうよ」
お蝶が扇子を鳴らす。
「兵庫殿、昨日の掃除が不十分でした。今日こそ徹底的に指導します」
お鈴が冷静に告げる。
「な、なぜ皆、拙者を取り合うのだ……?」
兵庫は困惑していた。
娘たちの雰囲気が、いつもと違ってピリピリしている。
左門は縁側で静かに茶をすすりながら、その様子を観察していた。
(なるほど。この娘たち、兵庫に対して……)
左門は薄く笑った。
(恋をしているな)
その瞬間、お紺が左門を睨んだ。
「……何か?」
「いや、別に」
お紺は兵庫の袖を掴んだ。
「兵庫殿、今日は私と布の仕入れに行きます」
「えっ、いや、拙者は……」
「行くんです」
「は、はい……!」
兵庫はお紺に引きずられていった。
その様子を見て、お梅が頬を膨らませる。
「なんや……ずるいわ、お紺殿」
お蝶は扇子で口元を隠しながら笑った。
「ふふっ、恋の匂いがするねぇ」
お鈴はため息をついた。
「皆さん、兵庫殿を困らせないでください」
だが、その声にもわずかな棘があった。
◆
夕方。
兵庫が戻ると、左門が声をかけた。
「兵庫」
「む、左門殿か」
「お前……気づいていないのか?」
「何をでござる?」
「娘たちの気持ちだ」
「……?」
兵庫は本気で分かっていない顔をした。
左門は額を押さえた。
「お前……鈍すぎる」
「な、何がでござる!?」
「お紺はお前と歩く時だけ歩幅を合わせている。
お梅はお前の好物を毎日作っている。
お蝶はお前の前でだけ舞が丁寧だ。
お鈴はお前の部屋だけ掃除が念入りだ」
「そ、そうなのか!?」
「気づけ」
「む、無理でござる!!」
左門は深いため息をついた。
(この男……敵に回すと厄介だが、味方にしても厄介だな)
◆
その夜。
夕餉の席で、左門は妙な視線を感じていた。
お紺は左門の顔をじっと見つめ、
「……毒など入れていませんよね?」
「入れるか!!」
お梅は左門の皿を見て、
「左門殿、野菜残したらあかんで?」
「残していない!」
お蝶は左門の背後に回り、
「ねぇ左門。兵庫に変なこと吹き込んでないだろうね?」
「吹き込んでいない!」
お鈴は静かに言った。
「左門殿。兵庫殿を困らせたら……分かっていますね?」
「脅しはやめろ!!」
左門は心の中で叫んだ。
(なぜ私はこんな娘たちに囲まれている……!? 私は幕府の隠密だぞ……!?)
その時、若君が左門の袖を引いた。
「左門殿」
「む、若君」
「左門殿は……兵庫兄上のこと、嫌いですか?」
「……嫌いではない」
「では、僕たちのことは?」
左門は答えられなかった。
若君は静かに言った。
「僕、左門殿のこと、好きですよ」
「……っ」
「左門殿は、皆のことをちゃんと見てくれています。だから、敵じゃないと思っています」
左門は胸が締めつけられた。
(この子は……なんて真っ直ぐなんだ)
◆
夕餉の後、皆は思い思いの時間を過ごす。
お紺は布を抱きしめながら呟く。
「……兵庫殿、気づいてくれるでしょうか」
お梅は畑で空を見上げる。
「兵庫様……うち、もっと頑張るで」
お蝶は扇子を閉じて微笑む。
「兵庫、あたしの舞……ちゃんと見てよね」
お鈴は掃除をしながら小さく呟く。
「兵庫殿……あなたは本当に、手のかかる人です」
そして――
左門は屋根の上で夜空を見上げた。
「さて。この恋の行方、どうなるか見物だな」
風が吹き、裏大奥の夜は静かに更けていった。




