第10話 忍び寄る影
夕暮れ。
裏大奥の庭には、今日もお梅が植えた苗が風に揺れていた。
お紺が飾った布が夕日に照らされ、廊下には柔らかな光が差し込む。
お蝶の舞の余韻が残り、お鈴の整えた生活のリズムが屋敷に静けさをもたらしていた。
兵庫は縁側に座り、深く息を吸った。
「ここまで来たか」
ボロ屋敷だった場所が、今では“家”になっている。
美があり、生命があり、華があり、秩序がある。
そして何より――
笑顔がある。
そこへ、若君が駆けてきた。
「兵庫兄上!」
「若君、どうされました?」
「皆さんが、夕餉の準備ができたって!」
若君は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、兵庫の胸を温かく満たす。
「行きましょう、兵庫兄上!」
「うむ!」
◆
囲炉裏を囲んで、全員が座っていた。
「この布、私が選んだんですよ。食卓が華やかでしょう?」
「今日の野菜、うちが育てたやつやで!」
「舞の稽古の後だから、お腹空いたねぇ」
「兵庫殿、箸の持ち方が違います」
「ひぃっ……!」
笑い声が絶えない。
若君はその中心で、幸せそうにご飯を食べていた。
「……ここが僕の家なんですね」
その一言に、全員が静かになった。
兵庫は胸が熱くなり、言葉を絞り出した。
「はい。ここが……若君の家でござる」
主膳は目頭を押さえながら、そっと呟いた。
「……本当に、大奥のようになってきおった……」
◆
食事が終わり、皆が眠りについた頃。
兵庫は庭に出て、夜空を見上げた。
「秀頼様……拙者は、ここまで来ましたぞ。若君は笑っております。この裏大奥は、必ずや若君を守る砦となりましょう」
兵庫は拳を握りしめた。
その時――
庭の外で、草がわずかに揺れた。
「……?」
兵庫は気配を感じ、刀に手をかける。
しかし、風が吹いただけのようにも見える。
気のせいかもしれない。
だが――
その影は、確かに人の気配を残していた。
◆
「……なるほど。噂は本当らしいな」
黒装束の男――幕府隠密・霧島左門が、屋根の上から裏大奥を見下ろしていた。
「美しい娘が四人……そして、謎の少年。片桐兵庫、何を隠している?」
左門は目を細めた。
「調べる価値は、十分にある」
風が吹き、左門の姿は闇に溶けた。
◆
裏大奥は、確かに家として完成した。
笑顔があり、温かさがあり、未来への希望がある。
だが同時に――
その存在は、静かに、しかし確実に外の世界へ漏れ始めていた。
兵庫たちはまだ知らない。
この静かな夜が、嵐の前触れであることを。




