第57話 【后土鎖水陣】と【彌陀聖水】と白蛇の体躯
◇◆◇ 天魔神教 天魔仙跡:白蛇原始樹海 第六公子 白眉剣龍 日月慶雲 ◇◆◇
たどり着いた場所は【万重轟毒湖】の中層に存在する横穴、すなわち水中洞窟。このあちこちから石筍が生えた鍾乳洞こそ、かの白蛇の巣穴である。
「…………」
白蛇の所在を求めて水面から顔だけを出して様子を確認する。忙しなく視線を巡らせてみるも白い影は何処にも見当たらない。どうやら今は留守のようだ。
「…………おらぬな。フンッ!」
裂帛とともに水流を踏みしめ、今度は顔のみならず全身を水の上に出して水面に立つ。
懐から取り出した一本の葦に立つそれは『一葦渡江』の境地。古くは嵩山少林寺の開派祖師である達磨大師が一本の葦で激流を渡ったことから伝わる技である。……今更だが、あの時もこうしておけば恥を晒すことも無かっただろう。
水から出る時、あるいは水面に立つ時どちらも『チャポン』という効果音が入りそうな感じであるが、実際にはわずかな水音一つしていない。今の本座の一層に満たぬ【四海覇皇道典】であっても、その程度の波紋を鎮めることは容易であった。
「……ふむ?」
……波紋……空気……?
そういえば以前覗いて見た時もそうだったのだが、ここは水中洞窟でありながら何故か空気が存在している。
いや、確かにそういうこともあるだろう。しかし湖が形成される時に取り込まれた空気と仮定するにしては埃っぽさがなく、ある程度の空気の循環が見て取れる。その上、鍾乳石と石筍に埋め尽くされた本座の視界の一角に映る緑は、この洞窟に自生した草木と苔だ。
ここはいったいどういった場所なのだろうか?
「ん……?」
そんな疑問を抱いたとき、洞窟内を流れるほんのかすかな空気の循環から、そこに同調する妙な気の流れを知覚する。
ただの偶然ではない。ある一定の決まりに則って動くこの流れ……。
「八卦……陰陽……そして五行。これは陣法だな。土行と陰気を基盤としているのは分かるが……なんという陣だ?」
「ふむ、【后土鎖水陣】じゃの。五行陣の一つじゃ。土気を以て水気を抑える……いわゆる『土剋水』の理を利用して湖水が入り込むことを防いでおるというわけじゃな」
「師匠!」
この四年、陣法の基礎はそれなりに学んだとはいえ、やはり未だ知識不足は否めない本座。すると、いつの間にか腕輪の外へ出ていた師匠が、当然のようにさらりと解説してくれた。
流石は師匠。シショウペディアは今日も絶好調のようだ。
「ホホホホッ。ここが蛇の巣穴か、陣以外にもなんとも妙な気を感じるのう。……ところで童よ、『后土』と聞いて何か思い浮かばぬか?」
「『后土』?」
簡単な解説を終え、軽く辺りを見渡した師匠は何か気になることがあったのか、少し首を傾げた後唐突に本座へと一つ問いを投げかけた。まあ師匠の話があちらこちらに飛ぶことは珍しいことではないが、これまた唐突なことだ。
しかし『后土』といえばあれしかあるまい。
「道教の地母神、『后土娘娘』のことか?」
『后土娘娘』。
道教においては最上位の土地神であり地母神。
宇宙に存在するすべての大地と土地神、山神、鬼神を統括する最高神。
道教の主神とも言える『三清』を補佐する『四御』の一柱であり、四番目の天帝に位置付けられている。
「そうじゃ。『后土娘娘』は大地の女神であり墓所の守り神。女と死をその職掌とすることから『陰』を司ると言われておる」
「ああ、それは本座も知っておるが……それで?」
それらはすべて幼魔館で学んだ知識だ。
『后土娘娘』のことに限らず、我ら神教の敵対勢力である正派、その中核に存在する道教と仏教のことはそれなりに詳しく教えを受けている。
彼を知り己を知れば、というやつだな。そこらへんは理解が及ばぬことをすべて邪悪と見なす正派とは違うのだよ。
「ホホホッ、すなわちこの【后土鎖水陣】が意味するところは『陰』に偏った土行ということじゃ。土行は本来、陰陽のどちらにも偏りを持たぬ中庸の性質じゃが、その上で『陰』へと偏った土気は田んぼなどの泥土や腐葉土を意味するのじゃ」
「……ほう?」
なるほど、些か回りくどい物言いであったが、そこまで言われればはっきりとわかる。
いやそれ以上に雄弁に語っているのは、洞窟の一角へと向けられた師匠の強い視線。その先には先ほどから本座の視界の一部を占拠している緑……自生した草木と岩を覆う苔があった。
『陰』へと偏った土気、つまり豊かな土壌ということだ。
「まさか……あれら全てが霊薬の類か?」
すぐさま『心眼』で確認してみると、その場所には濃密な霊気が集まっていることがわかる。
無論あとで一つ一つ『鑑定』しなければ確たることは言えぬが、その場に漂う霊気の密度は、そこに存在するすべてが霊薬や天材地宝であっても何ら不思議でないほどだ。
「ホホホホホホホッ! それも良いのじゃが本命はその奥じゃ。一際長い鍾乳石から今にも滴らんとする水滴。そこから何か感じぬか?」
促されて視線を向けた先には、なぜ滴り落ちないのか理解できないほど水滴が鍾乳石の先に存在していた。大体300mlと少しくらいか? ざっと缶ビール一本分はあるように見えるのだが……水滴か、あれ? いやそんなことより『心眼』を……。
「――ッ!? ……なんだこの膨大な陰気は?」
「ホホホッ! あれは【彌陀聖水】。極に達する陰気に満ちた場所で100年に一度滴り落ちる霊薬じゃ。如何にここが霊気に満ちた場所だとしても、あれほどの量が生じるには何百年では効かぬじゃろうな」
「……ほう?」
つまるところ、陰気に特化した【空清石乳】のようなものか。それがあれほどの量を……なかなか興味深い。何百年どころか何千年、否、万年の歳月が経っていたとしても不思議では無いな。
……まあそちらの興味は後でも良いか。数多の霊薬に数々の天材地宝。本座も師匠もそれらを見逃すわけがない以上、この巣の主が帰って来ぬうちにさっさと採取に入るとしよう。目玉の【彌陀聖水】は仙月ら女性陣への土産だな。やはり極陰の霊薬は女が飲んだ方が効果が高い。
◇◆◇
かつて瑞麟が卵から孵る時に吸収した【天材地宝・万古仙命水】。
かの霊水が、俗人であれば触れただけその命を奪う恐るべき性質を持っていることは、これまで何度か説明してきたと思う。
しかしこの世にはそのような『元々触れることが叶わぬ性質』に限らずとも、何かと接触しただけでその性質と効能を著しく損なってしまうため、事実上触れることのできない霊薬がいくつも存在する。【彌陀聖水】もまた、その一つである。
しかし現在、この『触れられぬ』という制約を前に手も足も出ぬ本座は既に存在しない。
その発端となったのはかつて拠点を作成するときに掘り起こした、いわゆる残土。これらは【万重轟毒湖】という霊泉の傍にあってその影響を強く受けていたため、もともとが単なる粘土であったとしても準霊材とも言える品質を備えていた。
そしてその粘土を利用して本座が【真火百錬訣】で作り上げた物こそ、対霊水用保存瓶【白磁鎮水瓶】である。……なお粘土で作った物なのに、何故陶器ではなく磁器なのかという疑問には触れないこととする。勝手にそうなったのだ、本座は理由など知らぬ。
元々はもっと別の用途を目的として作ったそれは、念のため多めに用意していたおかげで今回の【彌陀聖水】も滞りなく回収することに成功した。まったく、備えあれば患いなしとはよく言ったものだ。
「――ん? 師匠、これを見てくれ」
そしてそれを見つけたのは【彌陀聖水】の回収が終わり、霊草や霊木、霊苔の採取へと移行していた時のこと。
採取が終わりに近づくにつれ、草木の間に隠れるようにして存在していた白い何かがあらわになった。
「鱗……いや抜け殻じゃの」
鱗一枚一枚の形をしっかりと残しながらも、よく見れば薄く透き通った一枚の皮であることがわかる
やたらと主張が激しいある一点の違和感を除けば、それはまさしく蛇の抜け殻であった。
「ふむ……しかし随分と大きいのう、二十尺(約600センチ)はありそうじゃ。童よ、たしか其方が見たという蛇の尾はこれほど大きなものではなかったはずじゃが……?」
「……そうだな、そのはずだ。たしかに少し大きいとは感じたが、あくまで普通の蛇と比べてと言う程度のはず……だったのだが……?」
そう、やたらと主張が激しい一点の違和感とはその抜け殻の大きさである。
本座が見た蛇の尾はその部位から推察するに、精々三尺(約90センチ)程度の大きさであるはずなのだが、しかし今この場に存在するのはどう見ても二十尺、すなわちアナコンダクラスの巨蛇の抜け殻なのだ。
「「…………???」」
師匠と思わず顔を見合わせ、二人で顔を付き合わせて考えてみるも答えは出ない。
しかし抜け殻の実物がここにある以上、やはり本座の見間違いと考えるのが自然……自然か?
「いや不自然だな。如何に隠密に長けて本座の目を誤魔化せようとも、十尺も二十尺もあるような巨躯を誇る蛇が師匠の感知を誤魔化せるはずがあるまい」
そうだ。自然不自然を考えるのであれば、その方がよっぽど不自然である。
であれば同じ巣穴を拠点とする別個体……この巨大な抜け殻の子孫とでも考える方が辻褄が合う。……まあそれにしては抜け殻の状態がそれほど悪くなっていないようにも思うのだが……この陰気に偏る土行という環境の影響かもしれぬ。腐りにくくなっているのだろう。
「なるほどの、そう言われてみればそうじゃな。これほどの巨躯であれば、流石に捉えられよう。それにそれほどの霊物となれば力もさることながら相当の知性を持つはずじゃ。いつまでも縄張りにおる妾たちを放置するとも思えんの」
指摘にうなずいた師匠は別の視点から、本座が感じた不自然の違和感を補強する。
なるほど。霊物の知性から逆算する……そんな考え方もあるのか。勉強になるな。
「まあ今はそちらは良いわ。童よ、その抜け殻も取っておけ。上手く使えば【避毒珠】に……ッ!?」
「どうし……っ!?」
師匠の言葉が途切れた瞬間、洞窟の空気そのものが張り詰めた。
遅れて、水面を擦る重々しい音が響く。
ここで二人の位置関係について説明しよう。
師匠は洞窟の奥側に、そして本座は入り口側に居た。すなわち本座の背後には【万重轟毒湖】の湖内へと続く入り口が存在し、急に言葉を途切れさせた師匠の視線が本座の背後へと動いたのが分かった。
「……一寸先は闇。いやこちらが巣穴に入り込んでいる立場なれば、噂をすれば影が差すであろうな。会いたかったぞ、白蛇よ」
隙を見せぬように、しかし同時に焦りを見せぬようにゆっくりと振り返り、件の白蛇と正対する。ちなみに師匠はさっさと腕輪へと引っ込んだ。こういう時に手助けしてくれないのは師匠の教育方針だ。
「シャアアアアッ!!!」
「……随分と大きいな。二十尺(約600センチ)はとうに……いや三十尺(約900センチ)を超えておるな。口から覗くその毒牙だけでも一尺は超えておろう」
主の不在に自らの巣に入り込んだ虫を叩き潰さんと、『重水』に満ちる湖を軽々と泳ぎながら陸地へと上がった白蛇。
本座は念の為洞窟の奥地へと下がりながら観察を続ける。首を持ち上げて威嚇する仕草は、もはや蛇と言うよりも龍と称した方がよさそうな威容だ。
「フッ。中々斬りがいがありそうではないか」
しかし残念なことにその威容とやらに怖じる様な可愛げは本座には存在していない。
そんな自らの心境に本座は少し笑みを浮かべ、母の形見たる【法宝・鋭寒】を取り出して中段に構えた。
「ジャアアアアアアアアッ!!!!!!」
「――なるほど、これが『死』の予感か。面白い」
これから始まる戦いは、この世に生まれて初となる生死の狭間。
さあ存分に楽しませてもらうぞ、白蛇。
「フハハハハッ!!!」




