第五話 殴り合わない決闘
広場の中央に酒瓶が積み上げられていく。
もはやアルコールそのものと言っていい、
アルコール度数が凶悪に高い酒だ。
ベルトの酒は贅沢品だが希少品ではなく、
大量に生産されている日用品だった。
その理由はおそらく、このベルトが、
過酷で退屈な世界だからだろう。
ベルト地帯では娯楽が少ないが、
その割に自由になる余暇は長い。
チェスのような盤上遊戯の愛好者も多いが、
そんな穏やかな楽しみでは、
全く物足りないという者も少なくなかった。
喧嘩、賭け事、乱痴気騒ぎ――
戦場の片隅でさえ火が灯れば、
誰かが歌い始め、誰かが踊る。
その場には酒が必要不可欠だ。
不安を消し、心を軽く、身体を熱くする霊薬が。
だが初期のベルトで酒は戒律で禁じられていた。
指導者たちは資源の浪費という理由で、
酒のために果実や穀物を使うことを禁じたのだ。
だが苦難に満ちた開拓には逃げ道が必要だった。
滅びへの恐怖と義務感だけでは、
人は戦い続けることはできない。
始まりの時代には旧時代の薬物が残っていた。
痛みを和らげる薬、眠りに導く薬――
医療用だが使い方次第で麻薬の代わりになる。
精神病が蔓延し、自殺が増加し、
刹那的な生が当たり前になった。
倉庫からの強奪と乱用が激しくなり、
低品質の偽物まで出回り始めた時、
遂に指導者は酒と煙草を容認した。
更に危険な薬物が蔓延するよりは、
アルコールの方がまだマシである。
またそうするしかないのであれば、
まともなものを公的に造るべきだ。
彼らは酒造解禁をこのように説明したという。
『過去の経緯を考えに入れず検討し直したなら、
酒を造り、酒を飲むという行為の総体の中で、
浪費されるのは人の労働だけである。
人の体内に取り込まれ、排出され、
再び作物となる物質の循環の中で、
何かが永遠に失われることはない。
初期の指導部が出した禁止の命令は、
社会秩序を案じた倫理的判断であり、
酒が永続を損なうからではなかった。
ならば最悪の危機を脱し、
労働力に余裕のできた今、
禁止とする理由はもう薄いと言える。
故に節度を持って酒を楽しむことを、
生きる喜びを取り戻した証として、
我々はここに勇気をもって認めたい』
未だ厳しい状況が続く中での勝利宣言は、
しかし士気を高め、状況を好転させた。
それ以来、酒は公認の麻薬として、
勝利の秘薬、ソーマの代替として、
幾度かの反動的な禁令を経ながら、
ベルト全域で飲み続けられている。
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
三十分前――
フレアは斧男にこう提案した。
「……お酒はどうでしょうか?」
ベルトの男にとって、
酒飲みであることは一人前であることの証。
大人になることは酒を嗜むことであり、
またどれほど飲もうと酔い潰れないことは、
戦う力と並ぶ男の強さの証だった。
酒で女に挑まれるということ――
それが意味するのは純粋な侮辱である。
山師の宴会に一度でもつきあえば、
嫌でも肌で感じてしまうことだが、
彼女はその意味を完全に理解していたのだ。
傭兵たちは息を呑む。
重い沈黙が生まれた。
「俺に酒で挑むってのか」
男は意外にも冷静だ。
腕がぴくりとしたが、
拳を握りはしなかった。
ただ限界まで見開かれた目だけが、
その激しい怒りを表現しているようだった。
茜色の少女はその圧力を受け流して頷いた。
「はい。私は――
拳ではなく酒であなたに勝とうと思います」
その瞬間、周囲の傭兵が奔流のように叫ぶ。
意味のある言葉にならない怒りだ。
「お前は強いのか?」
目覚めてから一滴も飲んでいないが、
強いと言えば強いだろう。
そもそも酔うはずがない。
「人前で飲んだことはありませんが、
人並み以上には」
フレアは控えめに答える。
「人並み以上か」
男は一瞬身体を震わせた。
両の拳が握りしめられる。
「お前が負けたら、この仕事が続く間、
俺の部下になれ」
「では私が勝てば、この仕事が続く間、
私のお願いを聞いてください」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
「馬鹿な勝負を挑んだな、ラッカード。
あの女がどれほど強いかは知らんが、
相手が悪かった。
女を取られて泣きべそこくがいいぜ」
準備の最中、顔見知りの傭兵が言う。
「あいつはそんなに強いのか?」
「やっぱり知らねえんだな」
「あれは六年前――
アポロンの傭兵との共同戦線でのことだ」
話し始めたのは初老の傭兵だった。
「招集した僧院の手前もあり、
決闘は固く禁じられていた。
連中はそれにつけ込み、侮辱をしかけてきた。
狡猾な連中にハリーが叩きつけたのが、
飲み比べの勝負、男の器を競う勝負だ。
そこでアルテミスの代表となったのが、
あのジェイホーク。
ジェイは瓶七本を呑み干して、
なおもまっすぐに立ったままだった。
相手の傭兵隊長は、
最後の一滴を飲み干そうと杯を呷った瞬間、
足をからませ、一回転して地に倒れ伏し、
その後はもう立ち上がることはできず、
飲んだ酒を吐き始める始末。
我々は決定的な勝利を得て、
その醜態を語り継ぐことに決めたのだ」
最初は冷静な語り口を保っていたが、
だんだん調子が上がっていき、
最後は高笑いするような声音になる。
「アルテミスの傭兵で一番の酒飲みという訳か」
傭兵は笑った。
「悔やみたいだけ悔やんでおけよ、ラッカード」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
酒が集まり、杯と卓が用意され、準備は整う。
人が集まり、騒ぎ立てる。
ベルトでも度を越した大酒飲みは嫌われ者だ。
だが例外が一つあり、それが飲み比べだった。
酒の人を鈍らす効果にどれほど耐えられるか。
その勝負に勝つことは大変な名誉であり、
神聖なる飲み比べの時に限っては、
どれだけ飲んでもいいことになっていて、
大量の酒を飲める者が英雄なのだった。
酒とは神より授かりし恩恵にして試練である。
この奇妙な妄想の始まりを僕は知らないが、
発酵という現象の原理を知る術のない場では、
酔いという経験は
人の魂に干渉する力の顕れとして、
自然とそのように理解されるのかもしれない。
確かに立派な神学だが、そんなものを、
酔っ払いが本気で信じているだろうか?
酒が真に神の与えたものなら、
酒がもたらす害や病をどう考えるのか?
全て試練扱いで乗り切るのか?
暴飲の都合のいい言い訳として使えたから、
口の回る酒飲み坊主たちによって、
神聖なものに祀り上げられたのではないか。
僕はそう思っている。
神聖なものだから断れない。
男同士の真剣勝負だから全力でやる。
誇りがかかっているから降参なんてしない。
本当はやりたくないけど仕方がない。
今日も倒れるまで飲むぜ、
という訳である。
「どんな大穴でも子供に賭ける奴は馬鹿だ。
子供じゃ強いも弱いも関係ねえ。
胃袋のでかさで勝てねえんだよ」
男の楽しみといえば酒、女、勝負、賭け。
いつの時代もこの四つが人気を集めるが、
飲み比べはそのうち三つを同時に満たす。
「胃袋の大きさだけで決まるものでもない。
酒を溶かし込む血の量が決め手になる」
酔いの回った男たちの議論が始まる。
「デカい奴が強いってことだろ」
「体格が大きいだけじゃなく、
筋肉をつけた分厚い身体が強いってことだ」
「それはどうかな?
デカい奴は酔いが回りにくいが、
酔いが回っても立ち続けられるのは、
空中戦に強い平衡感覚の優れた奴だろ」
「あめーな。
勝つのは足元が強い奴だよ。
酔いが進めばその平衡感覚が死ぬ。
決め手は崩れた体勢を立て直す踏ん張りだ」
傭兵は彼らなりに酔いの規則を理解して、
その発見に意味を与えようとしていた。
酒を片手に騒ぐ男たちは最後にまとまる。
「どれにしてもジェイが有利じゃねえか」
「そういうことだな」
「賭けにならねえぞ」
「では、僕がフレアに賭けよう」
突然割り込んできた僕を、
傭兵たちはぎろりと睨み、
「ラッカード…… てめえ……」
次の瞬間、歓声を上げる。
「そうでなくっちゃな!
金は持って来てるんだろうな!
有り金全部巻き上げてやるぜ!」
◇◇◆◇◇◆◇◇◆◇◇
飲み比べには応援という概念がある。
周りががぶがぶと飲んでいると、
中心に立つ者は酒に強くなるという。
魔物が同種の群れの長になると強くなるように、
人間もそうであれかしという祈りであるらしい。
魔物の生態をよく知る探索者らしい願掛けだが、
単に観客も飲みたいだけなのだと思えば、
納得しかない口から出任せだった。
傭兵たちは既に応援を始めている。
一部の技師も混ざっているようだ。
大半はジェイを応援しているようだが、
高倍率の大穴を狙った者もいるようで、
フレアに応援を向けている男もいた。
その酒の匂いが満ちた場の中心で、
フレアと斧男が向かい合っている。
双方仁王立ち、それが飲み比べの流儀。
互いの杯に酒を注ぎ合い、
呑み干させることで、
互いの内臓と脳を殴っていく。
飲み比べは殴り合わないボクシングだ。
勝敗は単純。
直立姿勢がとれなくなってしまった時、
テンカウントで立ち上がれないなら、
そこで終わりだ。
「口上を」
飲み比べもまた神事とされる。
審判を請うものではないが、
助力を願う口上は変わらない。
「大いなる神トールハンマーよ、
御身が光を受けて、日頃より育て蓄えた、
私の力、私の意志、その全てを照覧あれ。
このフレア・スティールマンが勝つ時は、
この迷宮での仕事が続く間、
ジェイホークに命令する力を授けたまえ」
フレアの身も蓋もない口上に斧男は笑う。
「大いなる神トールハンマーよ、
「御身が光を受けて、日頃より育て蓄えた、
我が力、我が意志、その全てを照覧あれ。
このジェイホーク・ウッドが勝つ時には、
この迷宮での仕事が続く間、
フレアを部下として使う力を授けたまえ」
「双方よいな」
「はい」
「ああ」
「ならば始めよ。
立会人はハリー・ケイン。
勝敗の決着は降参の宣言か、
十を数える間に立ち上がれなかった時だ」
二人は瓶をとり、大男は少し屈んで、
少女は少し背伸びして酒を注ぎ合う。
飲み比べが始まった。




